年間第25主日・C年(22.9.18)

「あなたがたは、永遠の住まいに入れてもらえる」

 

安息日がいつ終わるのか(アモス8.5参照)

  今日の第一朗読ですが、アモス書8章からの抜粋であります。

 この預言者アモスが、その預言書の冒頭で自己紹介を次のように書いております。

「テコア村の牧者アモスのことば。」(同上1:1参照)と。

  実は、この村は、エルサレムの南約25キロ、東に死海を望む標高825メートルにあるユダ領内の村で、そこでの牧者であると言っていますが、単なる羊飼いではなく、家畜の群れの所有者という意味でしょう。

 また、彼が預言者として活躍した時代背景ですが、紀元前8世紀、ユダ王国がまさに物質的繁栄と安泰感をもたらした時代で、人々の間には、北のイスラエル王国の軍事的、経済的繁栄がもたらした貧富の差による階級差別、それに伴う社会秩序の混乱と宗教的退廃(たいはい)の中でこそ、アモスの預言は最も必要とされていたと言えましょう。

 ですから、今日の箇所の冒頭で、アモスは次のように厳しい警告を発しています。

「このことを聞け。

 貧しい人を踏みつけ

 苦しむ農民を押さえつける者たちよ。

 お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。・・・

 弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値(あたい)で買い取ろう。」と。

 実は、教皇フランシスコは、今日(こんにち)におけるいわゆる排他的な経済の問題点を次のように鋭く暴いておられます。

「『殺してはならない』という掟(おきて)が人間の生命の価値を保障するための明確な制限を設けるように、今日(こんにち)においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』と言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。

 飢えている人々がいるにもかかわらず食料が捨てられている状況を、わたしたちは許すことはできません。これが格差なのです。現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争社会と適者生存の原理のもとにあります。」(『福音の喜び』53項参照)と。

 

願いと祈りと執り成しと感謝とを すべての人々のためにささげなさい(一テモテ2:1参照)

 次に、今日の第二朗読ですが、先週に引き続き使徒パウロが書いたとされる牧者テモテへの手紙一の、2章からの抜粋であります。

 この書簡は、「牧会(ぼっかい)書簡」と呼ばれるように、教会がようやく共同体として一致できるようになったとき、特に教会指導者たちのための具体的な勧告がしたためてられていると言えましょう。

 ですから、今日の冒頭で、次のような祈りについての指針が述べられています。

「愛する者よ、まず、第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。・・・神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖(あがな)いとしてご自身を献(ささ)げられました。」と。

 

永遠の住まいに入れてもらえる(ルカ16:9b参照)

 最後に今日の福音ですが、先週に引き続きルカ福音書16章からの抜粋であります。

 ちなみに、ルカ福音書の文脈では、15章で、イエスのもとに近寄って来た徴税人(ちょうぜいにん)や罪人(当時のユダヤ社会で差別され軽蔑されていた人たち)、そしてイエスを批判し敵対するファリサイ派の人々や律法学者を前にして、イエスは、特にたとえを話し、神の喜びは、失ったものを見つけるまで捜し、見つけて喜ぶことにあると教え、16章に入ると、聞き手は弟子たちだけに限定されます。

 そこで、イエスは、神の国に迎えられるために、この世の富をどのように使うべきかを、また、たとえを用いて話されます。

 しかも、この段落の解釈ですが、まず、伝統的な説明では、この管理人が「不正」とされるのは、まさに主人の財産をかすめ、自己保身のために負債額をごまかしたからだと言うことです。

 たしかに、主人は8節で、この管理人をほめていますが、彼がやってしまった不正行為をほめたのではなく、あくまでも自分の身の危険に敏感に対応したその抜け目のない賢さを褒めているのに過ぎないのです。

 ですから、この解釈によれば、たとえの適用箇所は8節後半の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」という箇所になります。

 つまり、終末(救いの完成)が差し迫っている今、光の子ら(イエスを信じる者)も、この世の子らと同じように機敏(きびん)な対応を選ぶ賢さを備えるべきだと、教えていると言えましょう。

 けれども、このように解釈すると、9節以降つまり「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、お金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」は、後(あと)から二次的に付け加えられた説明であり、直接イエスご自身によるものではないことになります。

 ここで、もう一つの解釈として、この管理人が証文(しょうもん)を書き直させた背景には、当時の商(あきな)いの習慣が考えられると言うのです。

 つまり、律法では、同胞から利子をとること自体が禁じられていたのですが、実際には、負債額に利子分を上乗せした額(がく)を総額とする証文(しょうもん)を作成していたのです。

 この解釈ですと、9節はイエスご自身によって実際に語られた言葉であり、この節でこそ、たとえの意味を説明していることになります。

 いずれにしても、イエスがこのたとえで語ろうとなさった教えは「この世の富の活用法」であると言えましょう。つまり、この世の不正にまみれた富は、自分のためにだけ貯め込むのではなく、友をつくるために用いるべきであり、それこそが永遠の命への道であると教えておられるのです。

 ちなみに、イエスは、この世の富の徹底した使い方を、次のように強調なさっておられます。

「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたのために必要なことはご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人(ぬすびと)も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の富のあるところに、あなたがたの心もある。」(同上12:30-34参照)と。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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