年間第16主日・C年(22.7.17)

「必要なことはただ一つだけである」

 

あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう(創世記18.10a)

  さっそく、今日の第一朗読ですが、旧約聖書の最初の書物である創世記18章からの抜粋であります。

 この創世記こそ神の救いの歴史の始まりを語る、いわば原点の書とも言えましょう。

 ですから、今日の箇所の主人公は、イスラエルの信仰の父と尊敬される救いの歴史に登場する最初の主人公のアブラハムに他なりません。そのアブラハムの祝福の源となるという召命は、11章で次のように報告されています。

「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の源(みなもと)となる。あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族(しぞく)はすべて、あなたによって祝福に入る。・・・アブラムは、主のことばに従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」(同上12:1-4参照)

 また、この書物にはアブラハムが、神に一言も相談せず自分勝手に老後の人生設計を決めてしまい、まさに彼の人生の岐路に立たされたときのことを、次のように語り継(つ)いでいます。

「これらのことの後(あと)で、主のことばがビジョン(幻(まぼろし))の中でアブラムに臨んだ。

『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』アブラムは尋ねた。『わが神よ、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』アブラムは続けて言った。『御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕(しもべ)が跡(あと)を継ぐことになっています。』

 見よ、主が、ことばをかけられた。

『その者が跡(あと)を継ぐのではなく、あなた自身から生まれる者が跡(あと)を継ぐ。』

 主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』

 アブラムは、主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(同上15:1-6参照)

 そこで、再び、今日の場面ですが、一粒種(ひとつぶだね)のイサクの誕生の予告を、なんと三人の旅人の姿で登場する神が、アブラハムに告げるのです。

「わたしは来年の今ごろ、必ずここに来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」(同上18:10a)と。

 このようにして、アブラハムは、百七十五歳の長寿を全うした(同上25:7参照)のですが、当然のことながら、神のことばを信じてそれを実行するというまさに信仰に生きる人生を貫(つらぬ)いたわたしたちの信仰の先祖であります。

 

神はみことばをあなたがたに余すことなく伝える(コロサイ1:25参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがコロサイの教会のために書いたとされる手紙1章からの抜粋(ばっすい)であります。

 実は、この教会は、小アジア半島のほぼ中央にある古代都市コロサイに、恐らく使徒パウロの協力者エパフラスが創立したと考えられます。

 そこで、彼の報告によれば、コロサイの信者たちの間に、なんと誤った教えが広められていると言うのです。

 そのため、使徒パウロは、この手紙の冒頭(ぼうとう)で、彼の使徒職の本質に触れる大切な働きを、次のように強調します。

「神は御言葉(おことば)をあなたがたに伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。」と。

 私たちが、教会で担う役割は、本質的に奉仕に他なりません。イエスは、弟子たちに、ご自分の働きが徹底して奉仕職であることを、次のように宣言なさいました。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて仰せになった、『あなた方も知っているとおり、異邦人の間では、支配者と目(もく)される者がその民を支配し、また偉い人が権力をふるっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方のうちで偉くなりたい者は、かえって皆に仕える者となり、また、あなた方のうちで第一の者になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献げるために来たのである。』(マルコ10:42-45参照と。

 

マリアは良い方を選んだ(ルカ10:42参照)

  最後に今日の福音ですが、ルカ福音書が伝えるイエスがマルタとマリアを訪問なさった時のエピソードを伝えています。

 ちなみにヨハネ福音書によれば、マルタとマリアだけでなくラザロという男兄弟の三人は、イエスとは極めて親しい兄弟姉妹であり住まいはエルサレムに近いベタニアということです。(ヨハネ11:1,18参照)

 今日の場面は、イエスが、マルタとマリアを訪問なさったときのことであります。

 ルカはその時の様子を、次のようにきめ細かに報告しています。

「イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。』

 ここで確認すべきことですが、そもそもイエスは何のために彼女たちを訪問なさったのですか。また、イエスの目的に適うもてなしは、何かです。

 とにかく「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」のです。ちなみに、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように強調なさっておられます。

「聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自らを福音化し続けなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。」 

 幸い、第二バチカン公会議での典礼改革によって、3年の周期で、聖書全体の大切な箇所を、ミサの言葉の典礼において、聴く恵みをいただいていますが、まさにみ言葉から、新たな霊的な力、喜びをくみ取っているでしょうか。

 

 

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聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220717.html