年間第15主日・C年(22.7.10)

「行って、あなたも同じようにしなさい」

 

みことばは、あなたのごく近くにあるのだから、それを実行できる(申命記30:14参照)

  それでは、早速今日の第一朗読を振り返って見ましょう。

 この朗読箇所は、旧約聖書の五番目の書物である申命記30章の抜粋であります。

 この書物は、第二の律法とも呼ばれ、モーセが、イスラエルの民を導き、荒れ野での40年にわたる試練の旅を導き終えました。そこで乳と蜜の流れる約束の地を、はるかヨルダン川のかなたに眺めながら、モーセが、イスラエルの民に向かって切々と語った最後の説教集といえましょう。

 ですから、今日の箇所は、その第三部にあたる、いわば締めくくりの教えにほかなりません。モーセは、次のように熱弁をふるいます。

「あなたは、あなたの神、主の御声(みこえ)に従って、この律法の書に記されている戒め(いまし)(おきて)を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰りなさい。」と。

 実は、この掟は、すでに6章でも、次のような命令で始まり、後半は、家庭における子どもに対するみことば教育の大切さを加え、強調しています。

「聞け、(シェマ―)イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい。

 今日(きょう)、わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝る時も起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(同上6:6-7

 この大切な掟を、特にヨーロッパの諸教会そして日本の教会が、忠実に今日(こんにち)まで守って来たでしょうか。信仰が子どもたちと若い世代に十分に伝達されていないという深刻な現状を直視したとき、おのずとその答えが出てくるのではないでしょうか。

 モーセは、語り続けます。

「わたしが今日(きょう)あなたに命じるこの戒め(いまし)は、難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。

 み言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」

 ですから、今では、み言葉の集大成である聖書を、大人も子どもたちも各自持つことが出来るでしょう。しかもみことばは、各自が個人的に聞くだけでなく、仲間と分かち合うことが大切です。特に、聖書を毎日開いて親子で分かち合うことが出来るのではないでしょうか。

そうすれば聖書のことばが、わたしたちの血となり肉となり、わたしたちの日々の生活に実際に活かすことが出来るようになります。

 

誰が襲われた人の隣人になったのか(ルカ10:36参照)

    次に、今日の福音ですが、福音書の中で、最も知られているイエスが語られた善いサマリア人のエピードであります。

 まず、主人公であるサマリア人ですが、実は、彼らには、異民族の血が混じっているだけでなく、特に宗教上異教的な要素を取り入れているので、ユダヤ人からは差別され敬遠されていた部族でした。

 ですから、例えばヨハネ福音書で、イエスとサマリアの女との出会いの場面を、次のように設定をしています。

「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』といわれた。・・・すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」(ヨハネ4:7-9参照)

 今日の箇所は、第一場と第二の場に分けることができます。

 まず、第一場では、「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。』

 イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、彼は答えた。

『〔心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい〕とあります。」

 イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」

 ここで、まず、恐らく会堂内で、律法学者が、すでに答えを自分なりに知っているにもかかわらず、まさにイエスを試そうと、つまり、イエスご自身は、一体どのようなお考えなのかを確認したかったのでしょうか。

 ですから、質問は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。」とまさに信仰者の生き方の基本に関する質問にほかなりません。

 ここで言われている「永遠の命」ですが、ヨハネ福音記者は次の様に説明しています。

「アーメン、アーメンわたしは言う。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得ており、裁かれることなく、すでに死から命に移っている。」(ヨハネ5:24参照)

 さらに、また最後の晩餐の(あと)、イエスが、お一人で御父に祈られたとき「永遠の命とは、唯一(ゆいいつ)のまことの神であるあなたを知り、また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(同上17:3参照)と。

 しかも、この学者の質問は、「何をしたら」と、まさに具体的な行動について質問しているのです。

 そこで、イエスは、相手が律法学者ですから、さっそく、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と、問いただします。

ですから、律法学者は即座に、今日の第一朗読で確認し掟と、隣人愛の掟(レビ19:18参照)を加えます。そこで、イエスはお答えになります。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

ところが、この学者は、掟を実行していないことを正当化しようとして「では、隣人とはだれですか」と問いただしたので、イエスは、まさに具体例としてサマリア人のエピソードを語られます。

そして、話しの最後に、逆に問い返されます。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』

行って、あなたも同じようにしなさい。」

このイエスのお言葉ですが、自分中心に理屈で考える学者つまり「わたしの隣人とはだれですか」に対して、全く視点を変えてつまり、隣人を中心にして、「だれが襲われた人の隣人になったのか。」と、問い返されます。

ここで、わたしたちも、イエスが最後の晩餐の席上与えてくださった愛の掟を確認しましょう。

「わたしは新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなた方がわたしの弟子であることを認めるようになる。」(ヨハネ13:3435参照)

今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、地域社会おいて愛の実践にはげみましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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