十字架のほかに 誇るものがあってはなりません
神のイスラエルの上に平和と憐みがあるように(ガラテイア6.16)
まず、今日の第一朗読ですが、使徒パウロのガラテヤの教会への手紙6章からの抜粋ですが、実はガラテヤの教会は、使徒パウロの第二宣教旅行中にその地方を宣教した際に、次のような事情からその教会を創立したことが、次のように報告されています。
「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」(同上4.13)と。
ところが、なんと、その教会が重大な危機に立たされていることを、この手紙の最初に、パウロ自身の言葉で、次のように伝えています。
「キリストの恵みに招いてくださった方から、あなたがたはこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけでなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆(くつがえ)そうとしているにすぎないのです。」(同上1.6-7)
ですから、今日の箇所で次のように信仰の基本的捉え方について、正(まさ)に核心に触れる教えを伝える必要があったのです。
「わたしたちには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」と。
つまり、私たちの信仰は、命をかけて証しすべきということではないでしょうか。ですから、特別な事情に置かれれば、それこそ、殉教を選ばなければなりません。
ちなみに教父テリトリアーヌスは、「殉教者の血は、信者の種」と、喝破しています。ですから、日本のカトリック教会が、今日あるのは、キリシタン時代に大勢の殉教者が流された血のお陰にほかなりません。
ここで、先日記念したペトロ岐部と187殉教者の京都のキリシタンの十字架刑の殉教録を引用します。
「1619年10月6日、都中(みやこじゅう)を引き回されたキリシタン52人は、鴨川の近くの大仏の真正面に引きだされた。そこにはすでに27本の十字架が立てられていた。男性6人、女性26人、内15歳以下の子どもが11人を数えた。役人は、南のほうから一番目の十字架にヨハネ橋本太兵衛をつけた。捕らわれたときから、太兵衛が皆の支えになっていたことを役人は知っていたからである。中ほどの十字架には太兵衛の身重の妻テクラと5人の子どもがいた。テクラは、3歳のルイサをしっかり抱いて立ち、両横に12歳のトマスと8歳のフランシスコが母と同じ縄で縛られて立っていた。隣の十字架には、13歳のカタリナと6歳のフランシスコが一緒に縛られていた。鴨川に夕日が映(うつ)るころ、とうとう火は放たれた。炎と煙の中、『母上、もう何も見えません。』と叫んだ。『大丈夫、間もなく何もかもはっきりと見えて、皆会えるからね』。そう励ますと、テクラはいとし子たちと共に、イエス様、マリア様と叫び、くずれ落ちた。母は息絶えた後(のち)も、娘ルイサを抱きしめたままだったという。」
すべての町や村に二人ずつ先に遣(つか)わされて(ルカ10.1)
次に、今日の福音ですが、ルカ福音書10章からの抜粋です。
実は、ルカは、すでに9章で、「十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣(の)べ伝え、病人をいやすために遣わされた。」(同上9.1-2参照)と報告しています。
そして、今日の場面では、「その後(のち)、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」のであります。
そして、次のように命じられます。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」と。
ちなみに、ヨハネ福音者は、弟子たちの派遣は、なんとイエスが復活させられた当日の夕方でした。
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。・・・弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」と。
ですから、私たちも洗礼と堅信の秘跡によって聖霊を注がれ、その賜(たまもの)をもいただいています。
ちなみに、第二バチカン公会議前までは、福音宣教は外国から来てくださった宣教師がたの専売特許であり、わたしたちはせいぜいそのお手伝い程度と思い込んでいたと言えましょう。
ところが第二バチカン公会議のお陰で、総てのキリスト者は、福音宣教者の召命を頂いていることを確認したのであります。
さらに信徒使徒職に関する教令によって、次のように決定しました。
「教会の使命における信徒の固有な、また絶対に必要な役割については、公会議の他の文書ですでに述べた通りである。すなわち、キリスト者としての召命そのものから生じる信徒使徒職は、教会に決して欠くことの出来ないものである。」(同上1項参照)
さらに、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で次のように強調しておられます。
「神のことばには、信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと出て行くようにと言う呼びかけを受け入れました。(創世記12.1-3参照)モーセも『行きなさい。私はあなたを遣わす』(出エジプト3.17参照)という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というお言葉は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に招かれています。・・・私達皆が、その呼びかけに応えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅においやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです。」(同上20項参照)と。
ちなみに、毎週参加するミサの終わりの派遣の祝福の文言に、今年の待降節から、「行きましょう。主の福音を告げ知らせるために」が加えられます。
また、教皇フランシスコは、宣教活動において聖書がどれほど大切かを、次のよう強調しておられます。
「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、証しします。教会は自らを福音化し続けなければ、福音を宣教できません。・・・聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・福音化には、みことばに親しむことが必要です。又、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同でのレクチオディビナ(霊的読書)を促すことが求められています。」(同上174-175項参照)と。
今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場と地域社会で、福音を告げけ知らせることができるように共に祈りましょう。
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