年間第17主日・C年(22.7.24)

「正しい者たちのために町全部を救う」

 

その十人のために わたしは滅ぼさない(創世記18:32d参照)

    今日の第一朗読ですが、創世記18章からの抜粋で、アブラハムが、三人の旅人の姿で現れた神を、見送ってからの出来事として、いとも感動的に伝えている場面であります。

 実は、アブラハムの甥(おい)のロトですが、アブラハムと別れた後(あと)、自分で選んだ地方を次のように描いています。

「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一体は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園(その)のように、エジプトの園(その)のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一体を選んで、東へ移って行った。・・・ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。」(同上13:10-13参照)と。

 そこで今日の場面ですが、「その日、主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実(じつ)に大きい。わたしは降(くだ)って行き、彼らの行跡(ぎょうせき)が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。その人達は、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。」

 ここから、今日の主題である、アブラハムのとりなしのための主なる神との対話が始まります。

「アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずがございません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』」

 アブラハムのこの説得力のある申し出に対して、主は答えられます。

「もしソドムの町に正しい人が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と、アブラハムのとりなしを全面的に受け入れてくださいました。

 ところが、アブラハムはさらに粘ります。

「塵(ちり)あくたにすぎない私ですが、あえて、わが主に申しあげます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかも知れません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」

 そこで、主は、アブラハムに対してさらに全面的に譲歩なさいます。

「もし四十五人いれば滅ぼさない。」

 ところが、さらにアブラハムはしつこく嘆願(たんがん)します。

「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」と。

 そこで、主は、また、忍耐強く答えられます。

「その四十人のためにわたしはそれをしない。」と。

 さらに、アブラハムは,最後に願います。

「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」

 とうとう主は、アブラハムのとりなしを全面的に受け入れてくださいます。

「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」と。

 わたしたちも、主なる神の憐れみに全面的に信頼し、忍耐強くとりなしの祈りを続けるべきではないでしょうか。

 

聖霊を与えてくださる(ルカ11:13参照)

  次に、今日の福音ですが、ルカ福音書11章の1節から13節までの抜粋であります。

 この福音書ですが、全体にわたって特に聖霊の働きを重点的に強調していると言えましょう。

 ですから最初の1章で、洗礼者ヨハネの誕生の予告の場面で、父ザカリアに天使が次のように語ります。

「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。・・・彼は主の御前に偉大な人となり、・・・すでに母の胎(たい)にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」(ルカ1:13-16参照)と。

 さらに、イエスの誕生を天使ガブリエルが告げる場面では、次のように聖霊の働きを強調しています。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。』(同上1:35参照)と。

 さらに、身ごもったマリアが、親類のエリザベトを訪問なさったときです。

「マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまは、祝福されています。』(同上1:41-42参照)と。

 実は、今日の箇所ですが、主の祈りについての段落(同上11:1-4参照)と、しつように懇願(こんがん)する友人のたとえ(同上11.4-8参照)と、最後に祈りの力について(同上11:5-13参照)にわけることが出来ます。

 ちなみに、主の祈りを教えるときの切っ掛け、ですが、「イエスが祈り終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこでイエスは言われた。」と、ヨハネの共同体に独自の祈りがあるように、イエスの共同体の祈りを教えていただいたと言えましょう。ですから、わたしたちも、毎日「主の祈り」として、忠実に唱え続けています。

 ただ、「主の祈り」は、ここのルカ福音書ではなく、マタイ福音書の箇所(マタイ6:9-13参照)に基づいて教会が決めた祈りです。イエスは、特に今日の段落の最後の箇所で、まさに私たちの祈り方の基本を次のように強調しておられます。

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と。

 そして最後にまさにルカらしく、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と、断言しています。

 実は、聖霊の働きについて詳しく教えてくれるのが、ヨハネ福音記者で、特に最後の晩餐の席上、イエスが次のように説明してくださいます。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ13:17参照)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」(同上16:18参照)と。

 今日もまた、聖霊によって私たちを派遣してくださる主に信頼し、それぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音をあかしできるよう共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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