年間第18主日・C年(22.7.31)

「自分のために富を積んでも 神の前に豊かにならない者は」

 

なんという空しさ すべては空しい(コヘレト1:2参照)

    早速今日の第一朗読ですが、知恵文学に属する「コヘレトの言葉」1章からの抜粋で、人生の儚(はかな)さだけでなく、その空しさを歌いあげている箇所にほかなりません。

 ちなみにその時代背景ですが、ペルシャ時代(538-333B.C.)が終わって、ギリシャ時代(333-63B.C.)が始まり、アレキサンダー大王によるオリエント世界支配は、いわゆるヘレニズム文化を生み出したのであります。

 ですから、この異教徒の文化が、地中海沿岸の広い地域に大きな影響を与えるだけでなく、ユダヤ教はとうとう迫害をも受け、まさに信仰の試練に立たされた時代と言えましょう。

 したがって、このコヘレトの言葉は、エルサレムの無名の一作家が、まさに異教文化に対決し、信仰を忠実に生き抜くための知恵の大切さと、その素晴らしさについての教訓集として編集したのではないでしょうか。

 ですから、今日の箇所で、次のように強調しています。

「コヘレトは言う。

 なんという空(むな)しさ

 なんという空(むな)しさ、すべては空(むな)しい。」と。

 ここで言われている「空しさ」ですが、ヘブライ語では、「息」とか「蒸気」とかの意味で、そこから「空しい」とか「無」の意味に用いられたのです。ちなみに、日本語で「空しくなる」とは、「死ぬ」を意味します。

 ですから、2章では、「真(まこと)に、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。」と、まさに悟(さと)りに達するのではないでしょうか。

 そして最後の章で、「神を畏れ、その戒めを守れ」(同上12:13参照)が、本書の結論となっていると言えましょう。

 

古い人をその行いと共に脱ぎ捨て 新しい人を身に着け(コロサイ3:9参照)

 次に第二朗読ですが、使徒パウロがコロサイの教会へしたためた手紙3章からの抜粋であり、パウロの同伴者(どうはんしゃ)であるエパフラスの報告によれば、コロサイの信徒たちの間に、なんと間違った教えが広められていたと言うのです。

 ですから、使徒パウロは、今日の箇所でまさに信仰の核心に触れる復活信仰について、極めて大胆に、次のように命じています。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」と。

 ここで、「キリストと共に復活させられた」と断言していますが、実は、2章に次のようなくだりがあります。

 キリスト者は、「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた。」(同上2:12参照)と。

 ですから、「地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲(どんよく)を捨て去りなさい。貪欲(どんよく)は偶像礼拝にほかならない。」と。

 ちなみに教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、現代の新しい偶像についてきわめて厳しい警告を、次のように強調しておられます。

「わたしたちは、貨幣が自分たちと自分たちの社会を支配することを、素直に受け入れてしまったのです。現在の金融危機は、その根源に人間性の危機―人間性優位の否定―があることを忘れさせてしまいます。わたしたちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真に人間的な目標のない、貨幣崇拝と顔の見えない経済制度の独裁と権力というかたちで、古代の金の雄牛の崇拝が、新しい、冷酷な姿を表しているのです。」(同上55項参照)と

 

有り余るほどの物を持っていても 人の命は財産によってどうすることもできない(ルカ12:15参照)

  最後に今日の福音ですが、ルカ福音書12章からの抜粋であり、「愚かな金持ちのたとえ」を用いて、物に対するキリスト信者のあるべき態度について群衆にたとえを用いて語る場面にほかなりません。

    特に今日(こんにち)の日本は、戦後の経済高度成長を満喫し、確かに物質的には豊かになったために、かえって精神的に貧しくなってしまったと言えましょう。

 ですから、今日の福音で語られるイエスのお言葉に、心して聞き従う必要が有ります。まず、イエスは、貪欲(どんよく)について次のように警告なさいます。

「『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』それからイエスはたとえを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思いめぐらしたが、やがて言った。『こうしよう。倉をこわして、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、一体誰のものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。』

 ここでいわれている「神の前に豊かになる」とは、33節でいわれている「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦(す)りきれることのない財布を作り、つきることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人(ぬすびと)も近寄らず,虫も食いあらさない」と言われていることにほかなりません。

 ちなみに、教皇フランシスコは、今日の排他的な経済システムを、次のようにするどく非難しておられます。

「『殺してはならない』と言う掟(おきて)が人間の生命の価値を保障するための明白な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を否定せよ』とも言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。飢えている人々がいるにもかかわらず食料が捨てられている状況を、私達は許すことはできません。これが格差なのです。現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争社会と適者生存の原理のもとにあります。・・・

 わたしたちは『破棄(はき)』の文化をスタートさせ、それを奨励してさえいます。つまり、排他性は、わたしたちが生活する社会に属するという根幹の部分にまで達しているため、もはや社会の底辺へ、隅(すみ)へ、権利の行使のできないところへと追いやられるのではなく、社会の外へと追い出されてしまうのです。」(同上53項参照)

 今週もまた派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、わたしたちが、まさに地の塩・世の光(マタイ5:13-14参照)として福音を伝えることができるように共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220731.html