仙台教区:平和を求めるミサ(22.8.7)

「この聖書のことばは今日実現した」

 

エッサイの株から若枝が育ち その上に主の霊がとどまる(イザヤ11:1-2参照)

 早速、今日の第一朗読ですが、メシア預言の代表とも言えるイザヤ預言書11章からの抜粋であります。ちなみに近年の聖書研究の結果、66章あるイザヤ預言書を便宜上編集者と年代によって、第一イザヤ(イザヤ1-39)、第二イザヤ(40-55)、第三イザヤ(56-66)に分けます。

 ですから、今日の箇所は、第一イザヤに属し、その編集者は、紀元前8世紀にユダ王国で活躍したメシア預言者イザヤにほかなりません。

 そこで、イザヤは、メシアとして理想化されたダビデの誕生について次のように預言しています。

「その日、エッサイの株からひとつの芽が萌(もえ)いで

 その根からひとつの若枝が育ち

 その上に主の霊がとどまる。」と。

 すなわちダビデの父エッサイの切り株から、また、その根から新しい命である芽が萌(も)え出(いで)る。つまり、メシアとしての新しいダビデが生まれるのです。

 実は、すでに9章で「まことに、ひとりの嬰児(みどりご)がわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」と、預言されています。

 そこで、さらに、「ダビデの上に主の霊がとどまる」ので、まさに名も無いユダ族のエッサイの家系の末の子が、なんと神の民イスラエルの偉大な王に即位したときに聖霊が注がれたように、来るべき新しいダビデつまりメシアの上にも主の霊が留まるので、「目に見えるところによって裁きをおこなわず、耳にするところによって弁護することはない」のであります。

 さらに預言は続き、創世記で語られる楽園のイメージを背景に、弱肉強食の原理が共存共栄による平和のイメージに根本的に変革されるのを、次のように美しく牧歌的に描いています。

「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子とともに育ち 小さい子どもがそれらを導く。」と、メシアの到来によってまさに真(まこと)の平和の秩序が、実現するというのであります。

 

キリストと結ばれる人はだれでも新しく創造された者(二コリント5:17参照)

  次に、第二朗読ですが、使徒パウロがコリントの教会にその教会が抱(かか)えている深刻な問題を解決するためにしたためた手紙からの抜粋であります。

 つまり派閥争いのため、共同体が分裂の危機に立たされていたのです。そこで、パウロは、信仰の原点に立ち帰ってキリスト者の本来の生き方に回心するよう次のように励ましています。

「皆さん、だから、キリストと結ばれる人は、だれでも、新しく創造された者です。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」と。

 分裂の危機に立たされていたコリントの教会が、実は自分たちには、そもそも神が、「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになられた」ことを思い起こし、分裂の危機のただ中にいる自分たちの共同体を、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、からだに分裂が起こらず、各部分がたがいに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(一コリント12:24b-26参照)と。

 さらに、使徒パウロは、エフェソの共同体が真(まこと)にキリストの平和をあかしできるように、キリストの平和によって私たちが根本的に新しい人になるという根本的な回心が必要であると、次のように訴えています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。

 二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エフェソ2:14-17参照)と。

 

主の霊がわたしの上におられ貧しい人に福音を告げ知らせるために(ルカ4:18参照)

 最後に今日の福音ですが、イエスがメシアとしてデビューしてから初めて故郷(ふるさと)に里帰りしたときの会堂での出来事を、次のように伝えています。

「その時、イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものように安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目にとまった。」と。

 また「いつもの通り安息日に会堂に入り」と、イエスが福音を告げ知らせておられた通常の場が、当時のユダヤ社会の礼拝、裁判、そして子どものための學校などの機能を果たすまさに地域共同体の中心であった会堂であり、イエスも当然、会堂を活動の拠点になさっていたのです。

 しかも、安息日の会堂での礼拝に参加なさっておられたことは、今日の福音で確認できます。

 さらに、今日の場面で注目すべきは、イエスがお開きになった聖書の箇所であります。それは、メシア預言者の代表とも言えるイザヤの次のような預言でした。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と、イザヤ書の61章1節から2節を引用しています。

 内容は、第三イザヤの、紀元前6世紀に捕囚民の二回目のエルサレムへの帰還にまつわる預言と言えましょう。

 ですから、ルカは、その預言が、イエスによって見事に成就したことを、次のように宣言しているのです。

 従って「主の霊がわたしの上におられる。」とは、ルカは、イエスの洗礼で、次のように報告しています。「イエスも洗礼を受けて、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のように目に見える姿で、イエスの上に降って来た。」(同上3:21-22参照)と。

 まさに、神の救いの歴史において、メシアの到来によってこの地上に真の平和が実現することこそが、福音であることを確認できるのではないでしょうか。

 これから派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を告げ知らせることが出来るように共に祈りましょう。

 

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220807.html