主の昇天(22.5.29)

「祝福しながら天に上げられた」

 

地の果てに至るまでわたしの証人となる(使徒言行録1.8参照)

  初めに、本日の祭日の由来を簡単に振り返ってみましょう。

 実は、初期キリスト教では、キリストの昇天を祝う特別な祭日はなかったのであります。

 むしろ、キリストの高挙(高く上げられる)の記念が、復活の主日と密接に結びついていたと言えましょう。ちなみに、エルサレムのオリーブ山には、イエスが天に昇られた場所としてキリスト昇天教会が建てられています。また最初エルサレムでは、復活後50日目に、聖霊降臨とキリストの昇天とを記念し、4世紀になって初めて、多くの地方で、復活後40日目に、キリストの昇天を祝うようになりました。

 それでは、今日の第一朗読を振り返ってみましょう。

 今日の箇所は、福音記者ルカが、その福音の第二部として編集した使徒言行録の序文にほかなりません。

 ここで、ルカは復活のイエスの弟子たちに与えられたご命令を、次の様に伝えています。

「あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と。まさに世界宣教命令にほかなりません。

 続いて、ルカはイエスの昇天を、次の様に描いています。

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲におおわれて彼らの目から見えなくなった。」と。

 ここで言われている「雲におおわれて」ですが、雲がイエスを天にお連れするあたかも乗り物の役割を果たしていることの黙示文学的表現と言えましょう。

 つぎに、ここで、天使が突然登場し、次のような助言をします。

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様(ありさま)で、またおいでになる。」と。

 まさに、イエスが天に昇られるお姿に見とれているようだが、すでに命じられたように、これからは地の果てまでイエスの復活の証人として福音宣教に専念しなさいという忠告とも受け止めることができるのではないでしょうか。

 

罪の赦しを得させる悔い改めが あらゆる国の人々に宣(の)べ伝えられる(ルカ24.8参照)

 次に今日の福音ですが、イエスの昇天の出来事を語るルカ福音書24章からの抜粋であります。

 まず、ルカは24章の1節から12章の段落で、週の初めの日の明け方早く、婦人たちがイエスの御遺体の葬られている墓を訪れ、御遺体が見当たらないことに途方に暮れていたときに、二人の天使に次のように忠告されます。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。その方はここにはおられない。復活された。まだガリラヤにおられたころ、あなた方に仰せになったことを思い出しなさい。『人の子は罪人たちの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する』と、仰せになったことを。」(同上24.5-7参照)と。

 さらに、同じ章の36節から、復活のイエスが弟子たちのところに出現なさったことを、次のように伝えています。

「クレオパともう一人の弟子が自分たちも復活のイエスにお会いしたことを弟子たちに話していると、イエス自身が皆(みんな)の真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と仰せになった。彼らは驚き恐れて、幽霊を見ているのだと思った。」(同上24.36-37参照)と。

 そして今日の箇所に続きます。

「聖書には次の様に書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、回心が、その名によってあらゆる国の人々に宣(の)べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい。」と。

 ですから、エルサレムで聖霊を受けてから、早速、世界宣教に出かけなさいというご命令とも受け止めることができるのではないでしょうか。

 

出向いて行く教会となるために(教皇フランシスコ)

  実は、2012年に開かれたシノドスのテーマは、「キリスト教信仰を伝えるための新たな福音宣教」でした。

 このシノドスの結果を踏まえて教皇フランシスコは、「福音の喜び」という使徒的勧告を2013年に全世界に向けて発布されました。

 ちなみに、その第一章は、「教会の宣教の改革」であり、その最初の節は、「出向いて行く教会」にほかなりません。

 そこで、教皇フランシスコは、次のように強調しておられます。

「神のことばには、神が信者たちを呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと出ていくようにという呼び掛けを受け入れました。(創世記12.1-3参照)モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3.10)という神の呼び掛けを聞いて、イスラエルの民を約束の地に導きました。・・・(出エジプト3.17参照)

 今日(こんにち)、イエスの命じる「行きなさい」というお言葉は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。・・・つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれています。」(同上20項参照)と。

 更に教皇フランシスコは、福音宣教になくてはならない共同体における聖書の学びの大切さを次のように強調しておられます。

「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を受ける必要があります。

 また、教会は自らを福音化しなければ、福音を宣教できません。神のことばは「ますますあらゆる教会活動の中心に置くことが絶対に必要です。」(同上174項参照)と。

 ですから、福音宣教のための「聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・

 福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同での霊的読書を促すことが求められています。」(同上175項参照)

 これから、共同体ぐるみでみ言葉を学び、毎週、主日のミサによって派遣されるそれぞれの家庭、学校、そして職場においてみ言葉を分かち合い、復活のイエスを証しして行くことができるように共に祈りましょう。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220529.html