復活節第6主日・C年(22.5.22)

「平和をあなたがたに残し わたしの平和を与える」

 

わたしたちは満場一致で決定しました(使徒言行録15.25参照)

    私たちは、今、2023年10月にバチカンで「共に歩む教会のためー交わり、参加、そして宣教」と言うテーマによって開催される世界代表司教会議第16回通常総会に向けての準備に入りました。

 つまり、今回は、今までとは全く異なる方法を取り入れて、教会のすべてのメンバーが、まず、準備段階から参加するという極めて画期的な方法論を、教皇フランシスコの発案で取り入れました。

 ちなみに、皆さんは、すでにアンケートに答えることによって参加しましたが、大切なのは、これからも続けてテーマについて話し合い、シノドスがより豊かな実りを結ぶことが出来るように共同体ぐるみで協力することではないでしょうか。

 それでは、いつものように今日の聖書朗読について、簡単な解説をしましょう。

 まず、第一朗読ですが、使徒言行録15章からの抜粋であります。まさに時は、エルサレムで始まった最初の教会が、いよいよ異邦人の世界に出かけ宣教活動を開始した、まさに世界宣教の時代に突入したときです。

 早速(さっそく)、極めて重要な問題に直面しました。つまり、

「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは、救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、その他(ほか)数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」(同上15.1-2参照)というのです。

 そして、今日の第一回使徒会議の場面に移ります。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像にささげられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」

 ちなみに、ここで言われている「血」とは、規定通りに屠殺(とさつ)されない肉にともなう「血」にほかなりません。「絞殺した動物の肉」とは、ユダヤ教の戒律として定められている「規定通りに屠殺(とさつ)されなかった動物の肉」のことです。また、「みだらな行い」とは、性的不品行を意味し、ギリシャ・ローマ時代においては、性的不道徳を意味していました。

 このように、使徒たちは、西暦49年に開かれたエルサレム会議において、異邦人は、割礼を受ける必要もなく、またモーセの律法にも拘束されることなく、自由であることを決定したのであります。

 

都の中に神殿を見なかった(黙示録21.22参照)

  次に、第二朗読ですが、ヨハネの黙示録21章からの引用にほかなりません。 

 ちなみにこのヨハネの黙示録こそ、新約聖書において語られる代表的な黙示文学と言えましょう。特にこの書物は、七つの教会への手紙が示すように、ローマ帝国下において支配的な文化や世界観との対立的闘いにおける迫害と社会的で軋轢(あつれき)を体験している1世紀末の小アジアの諸教会にとって、まさに慰めと希望とを与えた文学形式と言えましょう。

 ですから、今日の箇所では、21章から始まる新しい天と地のビジョンが、まず新しいエルサレムの外観の次のような幻想的な説明で始まります。

「聖なる都エルサレムが神のもとから離れて、天から下ってくるのを見せた。都(みやこ)は神の栄光で輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉(へきぎょく)のようであった。」と。

 まさに、神の栄光の輝きが、神の都エルサレムの輝きによって示されるので、その輝きは、あたかも「最高の宝石のようであり、透き通った碧玉(へきぎょく)のようであった。」と、強調しています。

 つづいて、「都には、高い大きな城壁(じょうへき)と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。」と言うのです。ここで言われている「十二の門」ですが、イスラエルの十二部族と、城壁によって代表される十二使徒を象徴していると言えましょう。

 ところで、「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。」と、断言しています。

 特に、「都の中に神殿を見なかった。」というくだりですが、ユダヤ教の預言的または黙示的終末期が、特に神殿の再建を望んでいることから考えると、まさに衝撃的な情景と言えましょう。

 

わたしは平和を世が与えるように与えるのではない(ヨハネ14.27b参照)

 最後に今日の福音ですが、最後の晩餐の席上、イエスは弟子たちにまさに万感の思いをこめて最後の説教を、次の様に切々と語ったのであります。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものでる。」と。

 まさに、旧約時代のメシア預言すなわちインマヌエル預言である「神は我々と共におられる」(イザヤ7.14参照)の成就として、イエスは、なんと御父と一緒に私たち一人ひとりのところに来てくださるというのです。

 更に、弁護者、即ち聖霊が、「わたしたちにすべてのことを教え、イエスが話していたことをことごとく思い起こさせてくださる。」というのであります。

 しかも、「イエスは、平和をわたしたちに残し、イエスの平和をわたしたちに与えてくださる。イエスはこれを、世が与えるようにではない。」と、強調なさいます。

 たとえば、今、多くの民間人の犠牲者を増やしつづけているロシアとウクライナとの戦争が、平和交渉によって終結して実現するような平和ではないというのであります。

 ですから、使徒パウロは、エフェソの教会に宛てて次のような手紙をしたためています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠くはなれているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げしらせられました。このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(同上2.14-18参照)と。

 ちなみに、教皇フランシスコは、2019年11月24日、広島平和記念公園で、次の様に平和実現について訴えられました。

『実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。・・・希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、わたしたちがお互いを大切にし合い、運命共同体で互いに結ばれていると知るなら、必ず実現可能です。』(すべてのいのちを守るため:教皇フランシスコ訪日講話集37-38頁参照)と。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220522.html