年間第7主日・C年(22.2.20)

「敵を愛しあなたがたを憎む者に親切にしなさい」

殺してはならない(サムエル記上26.9参照)

   改めて、旧約聖書を紐解くことによって教会のルーツは、旧約時代における神の民イスラエルであると確認できるのではないでしょうか。しかも、この神の民の特徴を、モーセは次の様に総括(そうかつ)しています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面(おもて)にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされ、主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他(た)のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに、主は力ある御手(みて)をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救いだされたのである。」(申命記7.6-8参照)ですから、この地上における王ではなく、神ご自身が直接、ご自分の民を支配し導かれたことにほかなりません。

 けれども、神の民の歴史を振り返るならば、士師というこの地上での指導者の時代に、なんとイスラエルの民は最後の士師サムエルに向かって次のような大胆な要求を突き付けたと言うのです。

「あなたは既に年を取られ、息子たちもあなたの道を歩んでいません。今こそほかのすべての国のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」(サムエル記上8.5参照)

   そこで、サムエルは、次のような主の忠告を、民に伝えます。

「あなたたちの上に君臨(くんりん)する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用(ちょうよう)する。それは、戦車兵や騎兵(きへい)にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。」(同上8.11-12参照)ところが、民はサムエルの警告に従わず、次の様に主張します。

「我々にはどうしても王が必要なのです。われわれもまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭(じんとう)に立って進み、われわれの戦いを戦うのです。」(同上8.19-20参照)と。

 ですから、初代の王サムエルも、嫉妬心にかられて部下のダビデを殺そうとしたと言うのであります。

 ところが、一方ダビデは、今日の場面が伝えるように王を殺害しようとするアビシャイに向かって忠告します。

「殺してはならない。主が油注がれた方(かた)に手をかければ、罰を受けずにはすまない。」(同上26.9参照)と。

 ですから、この二代目の王ダビデに向かって、預言者ナタンは、このダビデの王国を理想化し、やがて来られるメシアによって神の国が実現することを、次の様に預言します。

「わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。・・・主があなたのために家を興(おこ)。あなたが生涯を終え、先祖とともに眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国は揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」(サムエル記下7.11-13参照)と。

 

あなたがたの父が憐れみ深いように 憐れみ深い者となりなさい(ルカ6.36参照)

 次に、今日の福音ですが、福音記者ルカが伝えるキリスト者の愛に根ざした生き方についてのまさに具体的な教えをまとめた箇所と言えましょう。

 実に旧約時代の神の民は、新約時代になってからは、イエスのお言葉に日々従うキリスト者として、教会を形成し、神の国の完成をめざして福音を伝えて行くという尊い使命を担っているのであります。

 ですから、ヨハネ福音書によれば、イエスは、最後の晩餐の席上での説教によって弟子たちを派遣なさるに当たって、次のように命じられました。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって願うものはなんでも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15.16-17参照)と。

 ですから、ルカはこのイエスの御命令を、今日の福音でさらに具体化して説明しているのではないでしょうか。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱(ぶじょく)する者のために祈りなさい。あなたがたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」と。

 実は、「非暴力・不服従運動の原理」を打ち立てたインドの父と尊敬されているマハトマ・ガンディが、若い頃ロンドンに留学中、聖書を開き、丁度この箇所を読んだときの感想を、親友ドウクに次の様に語っています。

「本当にわたしを、受動的抵抗の正しさと価値に目覚めさせてくれたのは『新約聖書』でした。たとえば『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』とか、『あなたの敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』といったことばを読んで、わたしは嬉しくてたまりませんでした」と。

 ヒンドゥー教のガンディが、まさにイエスのお言葉を忠実に守ったという、貴重な実例ではないでしょうか。

    ところが、キリスト教の歴史を振り返るとき、キリスト者がイエスの愛の掟を忠実に守る代わりに、戦争を始め、または、加担して来た現実を深く反省すべきではないでしょうか。ですから、今日の福音の後半で、イエスは次のように強調なさっておられます。

「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい。」と。

 内戦のため、国から脱出し、難民となってしまう大勢の人々、或いは、民族紛争によって国が分断されてしまうような状況に追いこまれてしまう犠牲者たち、イエスのご命令に従わないことによって日々その人数が増え続けている現状において、まさに地球上に住むすべての人々が、互いに兄弟姉妹として愛し合える平和な世界を実現させるために、キリストのお言葉に人生をかけたキリスト者の責任は大きいのではないでしょうか。

 ちなみに、教皇フランシスコは、三年前の11月24日広島平和記念公園で、次の様に訴えられました。

「思い起こし、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、よりいっそう強く、より普遍的な意味を持ちます。この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません。より正義にかない、よりいっそう兄弟愛にあふれる将来を築くための保証であり起爆剤(きばくざい)である記憶、すべての人、わけても国々の運命に対し、今日(こんにち)、特別な役割を負う人たちの良心を目覚めさせられる、広がりのある記憶、これからの世代に向かって言い続ける助けとなる生きた記憶をです。― 二度と繰り返しません、と。・・・希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。」と。

 

 

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