年間第8主日・C年(22.2.27)

「人の口は心からあふれ出ることを語る」

言葉こそ人を判断する試金石(シラ27.7参照)

 早速、今日の第一朗読ですが、知恵文学に属するシラ書(集会の書)27章からの抜粋ですが、この書物は、紀元前200年から180年の間に、シラ・エレアザルの子、エルサレムのイエススによって編集されたと考えられます。

 当時、既に地中海沿岸の世界が、ヘレニズム(ギリシャ)文化で栄えたので、その政策によってユダヤ人たちは、伝統的な信仰が危機にさらされていたことで、同胞を信仰において強めその試練に打ち勝つことができるように励ますために書いた書物と言えましょう。

 ですから、今日の箇所では、巧みな比喩を使って、誠実な信頼関係を危機にさらすものについての箇所で、次の三つを指摘しています。

 まず、最初に「ふるいを揺さぶると滓(かす)が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。」と、つまり、不純物を取り除くふるいのように、人の話もふるいと同じで、その人の欠点を滓(かす)のようにふるい出すと言うのであります。

 また、「陶工の器が、かまどで吟味されるように、人間は議論によって試される。」のであります。

 つまり、陶工がこね上げた粘土(ねんど)は火に焼かれますが、ひびが走ったり、割れたりする不良品が現れ、それぞれの正体が明らかにされてしまいます。それと同じで、人が口にする議論もその人の未熟さをさらけ出しかねません。

 さらに、「樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる。」つまり、手入れの程度を見ていなくても、最後に実を見れば、手入れの程度を明らかにされてしまいます。

 ですから、「話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。言葉こそ人を判断する試金石(しきんせき)であるからだ。」というのであります。

 

主に結ばれているならば 自分たちの苦労は決して無駄にならない(一コリント15.58参照)

 次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが派閥争いのため分裂の危機にさらされているコリントの教会へ書き送った手紙一、15章からの抜粋で、キリストの復活について語るのは、キリスト者が福音を「生活のよりどころ」(同上15.1参照)とすることができるためと言えましょう。

 ですから、きょうの箇所の冒頭で次のように断言しています。

「この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」と。

 まず、ここで言われている「この死ぬべきものが死なないものを着る」と言うことですが、死ぬべき人間が、復活のキリストに出会うことによって、まさに死を超えていのちを得ることができることを主張しています。

 確かに、死には人間を苦しめるさそりのような「とげ」がありますが、キリストが復活させられた今は、死の「とげ」は、取り除かれました。つまり、死そのものは取り除かれませんが、人を恐怖に陥れる「とげ」は、まさに死から取り除かれました。ですからもはや死を恐れる必要がなくなったと言えましょう。なぜなら、死という門を通って復活のいのちに入るからに他なりません。

 ですから、パウロは、次のように試練の最中にあるコリントの信者たちを励ますことが出来たのではないでしょうか。

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労は決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と。

 ちなみに使徒パウロは、復活のイエスに出会ったことによって、自分の生き方が根底から変えられたことを、つぎのように分かち合ってくれます。

「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。・・・わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリストに捕えられているからです。・・・なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3.8b-14参照)と。

 

その結ぶ実によって分かる(ルカ6.44参照)

    最後に今日の福音ですが、福音記者ルカが編集した「平地の説教」の目のイメージを中心に語られた箇所と言えましょう。

 ですから、まず、「イエスは弟子たちにたとえで話された。『盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる』」と。

    これらのたとえのメッセージは、リーダーシップについての警告と言えましょう。つまり、リーダーシップは、リダー本人が自分ではまだ理解しておらず、信じてもいない、あるいは自ら十分に咀嚼(そしゃく)してないことがらへと、他の人々を導いてしまう危険性があるのでないでしょうか。

 また、ここで言われている「十分に修行を積めば」ですが、「神があなたを完全にする」という意味に受け止めることもできます。つまり、イエスの弟子は、イエスに日々忠実に従うという修行にいそしむのですが、その前に必要なのは、天の御父の働きかけを全面的に受け入れるという全(まった)き信頼ではないでしょうか。

 さらに、イエスは、直接弟子たちに次のような厳しい忠告をなさいます。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか。・・・偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑(くず)を取り除くことができる。」と。

    ここで言われている「目の中の丸太」ですが、人の内面にひそんでいる闇、つまり神の働きかけを拒むかたくなさにたとえていると言えましょう。ですから、そのかたくなさを取り除くならば、すべてが「はっきり見えるように」なり、自分のためだけでなく、共に歩む兄弟のためにもなるというのであります。つづいて、話題を「実を結ぶ木」の譬えに切り替えます。

「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。・・・善い人は良いものを入れた倉からよいものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。」

   つまり、神の働きかけに心を開き、自分の目の中の丸太を取り除くことが出来れば、まさに神によって「良い実」を結ぶ「良い木」へと変えられます。しかも、その人はどのような人であるかは、その人が語る言葉、行う業から知ることがでます。良い木、良い人が生み出す「良い実」は、人々を幸せにします。

    今週もまた、日々主に忠実に聞き従うことによって、「良い実」を結ぶことが出来るように共に祈りましょう。

 

 

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