四旬節第1主日・C年(22.3.6)

「あなたの神である主を拝み ただ主にのみ仕えよ」

 

エジプトから導き出し この土地を与えられました(申命記26.9参照)

 

  四旬節という恵みの時を迎え、早速、教会は、今日の第一朗読によって教会の原点としての旧約時代の神の民の歩みを振り返ります。

 申命記は、別名「第二の律法」とも言われ、場面設定としては、イスラエルの民が、40年の長きにわたる荒れ野での試練の旅を終え、ようやくヨルダン川のはるか彼方(かなた)に約束の地カナンを眺めながらモーセが民に向かって切々と語り掛けます。つまり、モーセの三大説教と最後の勧告をまとめた大切な書物と言えましょう。

 しかも、今日の箇所は、第二の説教の最後の部分であり、祭儀を行う中心となる一つの場所と、そこで行われる儀式についての説明にほかなりません。

 ですから「あなたの神、主が相続の地として与えられる地に入って行き、それを所有し、そこに住むようになったとき、あなたの神、主が与えられる土地から取れるその地のすべての実りの初物(はつもの)を取ってかごに入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれた場所に行きなさい。あなたは、そのとき任についている祭司のもとに行き、『今日(きょう)、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました』と言いなさい。」(同上26.1-3参照)と。

 そして今日(きょう)の箇所に続きます。そこで、まず、信仰告白に続いて、感謝の奉納を行います。

「『わたしは、主が与えられた地の実りの初物(はつもの)を、今、ここに持って参りました。』あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏しなさい。」と。

  ちなみに、第二バチカン公会議は、それまでの教会を組織、制度、法的側面に偏った捉え方をしてきたことを、聖書的に見直し、地上を旅する神の民として教会を再確認したと言えましょう。

 ですから、まず、旧約時代の神の民イスラエルが、たどった歩みを振り返ります。つまり、エジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民は、40年の荒れ野での旅を終えて、約束の地に入植してから、毎年、春に過越祭として、つまりエジプトの奴隷の家からの解放を祝うようになりました。

 ちなみに、四旬節の40日という日数は、荒れ野の40年の旅と関連づけられたと言えましょう。ですから、今日(きょう)の福音で語られるイエスの荒れ野での40日間の誘惑体験が、四旬節の原点と言えるのではないでしょうか。

 しかも、典礼歴において、1年の周期が、「過越の三日間」を、頂点にして構成されていると、次の様に説明されています。

「キリストは人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するわざを、主のその過越の神秘によって成就(じょうじゅ)され、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになった。このため、主の受難と復活からなる過越の聖なる三日間は、全典礼歴年の頂点として輝きをはなっている。」(『典礼暦年と典礼歴に関する一般原則』18項参照)と。

 

 

人はパンだけで生きるものではなく 主の口から出るすべての言葉によって生きる(申命記8.3参照)

 

   次に今日の福音ですが、ルカによる福音書の4章からの抜粋であります。

 しかも、イエスの宣教活動に先立つ洗礼を洗礼者ヨハネから受けなければならなかったことを、次の様に強調しています。

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカ3.21-22参照)と。

 それから、きょうの場面に移ります。

 ですから、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、」と、まさに聖霊がイエスの行動をすべて導いていることを、確認しています。

 従って、40日間の厳しい悪魔の誘惑をも「“霊”によって引き回され」と、断言しています。

 とにかく、ルカにとってイエスのすべての活動において、常に聖霊が主導権をにぎっていると言えましょう。

 ですから、40日間の荒れ野での訓練は、実際に宣教活動を、まず故郷のナザレで開始するための準備であったことを、次の様に説明しています。

 「イエスは“霊”に満ちてガリラヤに帰られた。」(同上4.14参照)と。

 それでは、イエスが体験なさった誘惑について、少し丁寧に振り返って見ましょう。

 まず、第一の誘惑ですが、40日間断食した直後のことです。当然、悪魔は、イエスの弱点にまつわる次のような誘惑の罠(わな)に掛けます。

「『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』」と。それに対してイエスは、申命記のみ言葉を引用して、きっぱりとその誘惑をはねのけます。

「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と。

 実は、この申命記からの引用ですが、ルカは、この言葉の前半の箇所と後半の箇所をはぶいています。つまり、申命記の文脈では、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたたちに知らせるためであった。」(同上8.3参照)と長い説明があります。

 とにかく、申命記の文脈では、荒れ野での飢えの体験にまつわる食物のイメージが根底にありますが、ちなみに預言者エレミヤは、み言葉体験を次の様な強烈なイメージで告白しています。

「あなたのみ言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたのみ言葉は、わたしのものとなり わたしの心は喜び躍りました。」(エレミヤ15.16参照)と。

 次に、第二の誘惑ですが、「さらに悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは、わたしに任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。だから、もし私を拝むなら、みんなあなたのものになる。』」と。

 この誘惑こそ、今日(こんにち)の経済・軍事大国の最高指導者たちだけでなく、私達現代人の偶像崇拝ではないでしょうか。ですから、教皇フランシスコは、次の様に警告を発しています。

「わたしたちは、貨幣が自分たちと自分たちの社会を支配することを、素直に受け入れてしまったのです。・・・わたしたちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真に人間的な目標を欠く、貨幣崇拝と顔の見えない経済制度の独裁と権力というかたちで、古代に金の雄牛の崇拝が、新しい冷酷な姿を表しているのです。」(『福音の喜び』55項参照)と。

 

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聖書と典礼・表紙絵解説https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220306.html