四旬節第2主日・C年(22.3.13)

「これはわたしの子、選ばれた者これに聞け」

 

義と認められた(創世記15.6参照)

    早速、今日の第一朗読ですが、創世記15章の最初の段落で、主なる神が、幻の中でアブラハムに語りかける場面が次の様に報告されています。

「恐れるな、アブラム(改名される前の呼び名)よ。

 わたしはあなたの盾(たて)である。

 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(同上15.1参照)と。

 これに対して、アブラハムは、自分の気持ちを率直にさらけ出します。

「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。・・・御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕(しもべ)が跡(あと)を継ぐことになっています。」(同上15.2-3参照)と。

 実は、神はすでにアブラハムに対して次のような約束をなさっておられたのです。

「あなたの子孫を大地の砂粒(すなつぶ)のようにする。大地の砂粒(すなつぶ)が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。」(同上13.16参照)と。

 ところが、この約束が、なかなか実現しないまま、アブラムは年を重ねたので、焦りを感じ、神に一言(ひとこと)も相談することなく、自分勝手に老後の人生設計を決めてしまったのです。

 そこで、神は優しくアブラムに語り掛けます。

「その者があなたの跡(あと)を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡(あと)を継ぐ。」(同上15.4参照)と。

 そして、今日の最初の場面に移ります。

「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と。

 その時、神は、まず彼をテントから、外に連れ出し、つまり、アブラハムが自分の殻から出て、「天を仰いで」すなわち、神に心を開き、神がなさろうとすることをしっかりと仰ぎ見なさいというご命令に他なりません。

 そうしてこそ、神とアブラハムとのあるべき関係が成立するのです。つまり、私達が信仰を生きるのは、自我の殻から出て、神を仰ぎみながら、神の言葉に忠実に聞き従うことによってこそ、神とのあるべき関係が成立する生き方に変えられるのです。

 次に、主なる神が初めてアブラハムと契約を結ばれる場面に移ります。

 ちなみに聖書で語られる契約ですが、神がわたしたちとの揺るぎない絆(きずな)をわたしたちの心に刻んでくださる特別な恵みといえましょう。

 しかも、今日の場面では、当時のしきたりに従った特別な形式が選ばれています。

 つまり、神はアブラムに子孫を与え、この土地を継がせると約束し、動物を真っ二つに切り裂き、互いに向かい合わせるようにと指示を与えます。この時、彼は「深い眠り」に襲われ、二つに裂かれた動物の間を「煙を吐く炉と燃える松明(たいまつ)が、通り過ぎます。

 このように、神と人との契約は、シナイの契約のように人に義務が課せられることもありますが、人との関わりを大切にする神の思いが結ぶ約束といえましょう。

 ですから、ミサでの聖変化の場面では、司式司祭は、次のように唱えます。

「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪の赦しとなる 新しい永遠の契約の血である。」と。

 

イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について話していた(マルコ9.31参照)

   次に今日の福音ですが、ルカが伝える主の御変容の出来事であります。

  その文脈ですが、ペトロが弟子たちを代表して、イエスに対して「神からのメシアです。」(同上9.20参照)と、信仰告白した後(のち)、イエスが、初めて弟子たちにご自分の受難と死、そして復活の予告をなさいます。

 その後(のち)、「八日ほどたったとき、」きょうの出来事に移ります。

 まず、イエスは「祈るために」、三人の弟子、つまり、「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ」だけを連れて山に登られます。ところが、イエスが祈っておられると、お姿が変わり、その服が真っ白に輝き始めたというのです。

 おそらく、この輝きは、イエスの外的な変身ではなく、まさに神の子としての内面の輝きの現れの結果と言えましょう。

 さらに「モーセとエリヤが栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について話していた。」というのです。

 ここで言われている「最期(さいご)ですが、出発や旅立ちを意味する言葉であり、まさにイエスの死への旅立ちが、復活の栄光への出発でもあることを強調しているのではないでしょうか。

 ところが、そのとき弟子たちはなんと「ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っているモーセとエリヤが見えた。」というのです。

 つまり、弟子たちを襲った極度の眠気によって、彼らの心の目が閉ざされ、イエスの栄光については理解できなくなったのでしょう。

 ですから、ペトロが思わず申し出ます。

「先生、わたしたちがここにいるは、すばらしいことです。仮小屋(かりごや)を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリアのためです。」と。

 つまり、まばゆい栄光の光に目がくらんだペトロは、この栄光を地上にいつまでも留めて置きたくて、思わず仮小屋(かりごや)を建てましょうと提案したのではないでしょうか。つまり、彼はまだ、イエスの「出発」がもたらす栄光を悟っていなかったのです。

 ところが、「ペトロがこう言っていると、雲が彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」というのであります。

 まさにイエスこそ、地上から栄光を獲得するためではなく、天の御父の思いを自分の使命として忠実に行うように選ばれた者なのです。神は、イエスに華々しい地上の栄光ではなく、敗北と見える十字架の栄光を担(にな)うことを願っておられるのです。

 ですから、「これに聞け」という天の御父のご命令は、そこに仮小屋を建てて立ち止まらずに、エルサレムに向かうイエスの後に従って行きなさいというご命令ではないでしょうか。

 とにかく、その雲の中から声が聞こえたとき、弟子たちの前に立っておられたのはただイエスお一人だけでした。

 実は、この御変容の出来事の前に、イエスは次のような宣言をなさいました。

「わたしについて来たい者は、自分を否定し、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(同上9.23参照)と。

 

 

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【聖書と典礼•表紙絵解説】
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