年間第6主日・C年(22.2.13)

「貧しい人々は幸いである 神の国はあなたがたのものである」

人間に信頼し その心が主から離れ去っている人は 呪われる(エレミヤ17.5参照)

   今日の第一朗読で、紀元前6世紀にユダ王国で活躍した預言者エレミヤは、次のような警告を、大胆に預言しました。

「人間に信頼し、その心が主から離れ去っている人は、呪われる」と。

 当時、ユダ王国は北部の大国アッシリアと南部の軍事大国エジプトに挟まれて、とうとうアッシリアの属国になってしまったというまさに国の危機にさらされていた最中でした。

 したがって、そのような最悪の状態から解放されるために一体何に頼るべきなのか問われた時代と言えましょう。

 ですから、このエレミヤの警告の叫びを今日の世界に当てはめるならば、まさにこの世の富と軍事力に頼り切っている現状に対する警告になるのではないでしょうか。

 ちなみに、教皇フランシスコは、現代人がなんと新しい偶像つまり貨幣経済に支配されていることに次のように厳しく警告しています。

「私達は、貨幣が自分たちと自分たちの社会を支配することを、素直に受け入れてしまったのです。現在の金融危機は、その根源に深刻な人間性の危機人間優位の否定があることを忘れさせてしまいます。わたしたちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真に人間的な目標を欠落させ、貨幣崇拝と顔の見えない経済制度の独栽と権力というかたちで、古代の金の雄牛の崇拝が、新しい冷酷な姿をあらわしています。・・・」(『福音の喜び』55項参照)

 さらに、教皇フランシスコは、3年前の11月24日、長崎の爆心地公園で、核兵器廃絶を、次のように強調なさいました。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境を守るために使われるべきものです。今日(こんにち)の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられているにもかかわらず、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これは天に対する絶え間ないテロ行為です。・・・核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。この切なる思いを実現するためには、すべての人の参加が必要です。個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。」

 確かに、エレミヤの時代よりも、人類の歴史は、ますます神から離れ、この世的な富と武力に頼りきっているので、まさに人類破滅に向かっているのではないでしょうか。

 ですから、地球上のすべての人がこぞって神に立ち帰り、神のみ心に適(かな)った生き方に回心しなければなりません。

 そこで、今日の福音は、この回心の道筋となる大切な指針を示しているのではないでしょうか。

 

貧しい人は幸いである神の国はあなたがたのものである(ルカ6.20参照)

 今日(きょう)の福音は、ルカが伝えるイエスの教えの核心に触れる説教ですが、特に「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」を、今日(こんにち)の世界情勢のただ中で、受け止めるならば、まず、神の国の実現のためにどんなことを実践すべきかに気付かされるのではないでしょうか。

 実は、マタイは、神の国の完成の暁(あかつき)に、つまりこの世の終わりに完成する神の救いの歴史を、次のようにいとも荘厳に説明してくれます。

「人の子が栄光に包まれ、すべての天使を従えて来るとき、人の子は栄光の座に着く。そして、すべての民族がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊(やぎ)とを分けるように、人の子は彼らを二つに分け、羊を右に、山羊(やぎ)を左に置く。その時、王は自分の右側にいる者に言う、『わたしの父に祝福された者たち、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい。あなた方は、わたしが飢えているときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅をしているとき宿を貸し、裸の時に服を着せ、病気の時に見舞い、牢獄(ろうごく)にいる時に訪ねてくれたからである。』(マタイ25.31-36参照)と。

 つまり、貧しい人々が世の中の隅の追いやられている今日の世界のただ中で、神のみ心に従って貧しい人たちとの関わり方を根本的の変えて行く責任があるのではないでしょうか。

 ですから、教皇フランシスコは、貧しい人々を率先して大切にする世の中に変革(へんかく)して行くべきと、次の様に強調しています。

「すべてのキリスト者とすべての共同体は、貧しい人々が社会に十分に組み入れられるようにするため、彼らを解放し高める神の道具となるよう呼ばれています。それは、貧しい人々の叫びに素直に注意深く耳を傾け、彼らを救うようにということにほかなりません。聖書にただ目を通すだけで、よい方(かた)である御父がどのように貧しい人々の叫びを聴こうとされるのかが見いだされます。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、搾取(さくしゅ)する者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、彼らを救いだす・・・さあ、行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3.7-8,10参照)(『福音の喜び』187項参照)

 すでに確認したようにルカは、貧しい人々を神の国と密接に結びつけていますが、イエスの宣教活動の総括としても、次の様に締めくくっておられます。

「イエスはヨハネの二人の弟子に答えて仰せになった。『行って、あなた方が見たり聞いたりしたことを、ヨハネに告げなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病の人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』」(ルカ7.22参照)と。

 ですから、ヨハネもその手紙の中で、貧しい人々に対する愛の実践(じっせん)の大切さを、次の様に強調しています。

「わたしたちが愛を悟ったのは、イエスがわたしたちのために命を捨ててくださったからです。それ故、わたしたちも兄弟のために命を捨てなければなりません。『世の富を持っていながら、困っている兄弟を見ても、憐れみの心を閉ざす人のうちに、どうして神の愛が留まりましょう。子たちよ、言葉や口先によってだけでなく、行いと真実をもって愛し合いましょう。』」(一ヨハネ3.16-18参照)と。

 ですから、教皇フランシスコは、これからは教会がまさに出向いて行く教会になるべきと、次の様に呼びかけておられます。

「神のことばには、神が信者に呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へ向けて出発するようにという呼び掛けを受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣(つか)わす』という神の呼び掛けを聞いて、民を約束の地に導きました。・・・今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というおことばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。」(同上20項参照)と

 

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