「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」
わたしがここにおります わたしを遣わして下さい(イザヤ6.8参照)
今日の第一朗読の最後に、預言者イザヤは、神に向かって「わたしがここにおります。」と、いとも確信に満ちた返事ができました。
では、「ここ」とは、一体どこなのでしょうか。また、今日(こんにち)の預言者であるキリスト者は、どこに、どのような姿勢で立つべきなのでしょうか。
実に、イザヤのいる「ここ」とは、紀元前735年頃、ユダ王国の「ウジヤ王が死んだ年」というまさに特定の状況に他なりません。このウジヤ王は、一方では湾岸整備、造船所建設、陸上産業通商路を確保して、経済成長政策を遂行(すいこう)し、他方では軍隊再編、新兵器開発をし、南方領土を拡張して、防衛力を増強したと言うのです。
ところが、このような大事業を成し遂げたウジヤ王が「死んだ」ということは、ほぼ同じ頃北イスラエルではヤラベアム二世が死に、アッシリア帝国が台頭し始めたことで、時代がまさに地中海沿岸の世界的な規模でも、まさに激動と危機を孕(はら)んだ転換期に突入したことに他なりません。
しかしながら、イザヤが体験したのは、「高く天にある御座(みざ)に主が座しておられるのを見た」と言うまさに神秘的出来事であります。
他方、イザヤの「わたしはここにおります。」とは、激動の時代から目をそむけて、個人的確信にしがみ付くことでもありません。
なぜなら、イザヤは、神の聖性を次のように体験したからです。
「わたしは、高く天にある御座(みざ)に主が座しておられるのを見た。衣(ころも)の裾(すそ)は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』」と。
ところが、この神の神聖さを目(ま)の当たりにした、イザヤは、絶望の叫びを上げます。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚(けが)れた唇(くちびる)の者。汚(けが)れた唇の民の中に住む者。」と。ここで、まず「ああ」という無限の情感のこもった悲しみと絶望の、本来葬(ほうむ)りの嘆きの声を加えることもできます。まさに、自己の崩壊、内側からの全面的な崩れを表しています。
しかも、ここで言われている「唇」とは、古代においては全存在を表現していると理解されていました。ですから、「ああ、わたしは全面的に内側から崩れている。わたしの全存在が汚(けが)れ、全存在が汚(けが)れた民の中にいる」というまさに絶望の叫びに他なりません。
ところが、「セラフィムの一人が、わたしの口に火を触れさせて言った。
『見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎(とが)は取り去られ、罪は赦された。』」のであります。
このように、イザヤが立っているところは、単に激動と不安といら立ちの中ではなく、まさに自己の内面的崩れを絶対他者なる聖なる神があらゆる穢(けが)れから清めて受け止めでくださった恵みの只中(ただなか)に他なりません。つまり、死の体から救いだす大いなる恵みによって、「ここ」にいるのです。
しかも、「わたしがここにおります。」というイザヤの信頼に満ちた返事は、まさに罪の赦しによって新たに生かされ、復活に与(あずか)る者の応答と従順の姿勢を示していると言えましょう。それは、「赦され」、「呼び掛けを受け」、それに素直に「はい」と応答する、まさに使命をもった、自由な、雄々しくも喜ばしい人生であり、実に新しい生き方を目指しているのです。
お言葉ですから 網を降ろしてみましょう(ルカ5.5b参照)
次に今日の福音ですが、最初の弟子たちつまりシモン・ペトロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの弟子としての召命を受けた出来事を、奇跡を加えて感動的に描いております。
ルカは、まず場面設定をつぎのように説明しています。
「イエスがゲネサレト湖畔(ルカによるガリラヤ湖の呼び名)に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧(ごらん)になった。」
このようにルカは、イエスのもとに群衆が押し寄せて来たのは「神の言葉を聞こうして」と、念を押しています。
ですから、早速、イエスが「腰をおろして舟から群集に教え始められた。」と報告します。
ところが、場面は、いきなり奇跡に展開します。つまり、「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕(こ)ぎ出して網をおろし、漁をしない』と、イエスが、命じられます。そこで、漁師を生業(なりわい)としているペトロは、自分の体験を率直に報告します。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と。
聞くところによれば、ガリラヤ湖での漁は、夜であり、しかも、沖の深い所ではなく、岸に近い水の温かい浅瀬が漁場と決まっているそうです。
ですから、イエスの「沖に漕(こ)ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というご命令は、プロの漁師の流儀にはまったく反するのです。
けれども、イエスのご命令を、信仰の次元で受け止めたペトロは、早速、イエスの言われた通り実行します。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と。
ですから、「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網(あみ)が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。」と言うのです。
そこで、「二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、船は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深(つみぶか)い者なのです』と言った。・・・するとイエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から、あなたは人間をとる漁師になる。』
まさに、漁師という生業(なりわい)を捨てて、イエスの弟子になる、つまり、イエスと共に人々に福音を伝えることに生涯をかける漁師にさせられたのであります。
ですから、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、出向いて行く教会になるように、次のように熱き呼び掛けをなさっています。
「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へ出掛けるようにという呼びかけを受け入れました(創世記12.1-3参照)。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3.10)という神の呼び掛けを聞いて、民を約束の地に導きました(同上3.17)。・・・今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』という言葉は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。・・・つまり、自分にとって居心地(いごこち)のいい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです(同上20項参照)。」と。
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