年間第4主日・C年(22.1.30)

「預言者は自分の故郷では歓迎されない」

立ってわたしが命じるすべてのことを語れ(エレミヤ1.17参照

 早速、今日の第一朗読ですが、エレミヤ書一章からの抜粋であります。

 この預言者エレミヤは、紀元前627年から585年にかけて、つまり神の民の歴史の中で最も悲劇的な時代にユダ王国で活躍した預言者です。

 ですから、戦勝国の首都バビロンの近郊に強制移住させられた捕囚時代についても預言することができたのではないでしょうか。

 しかも、今日の朗読箇所は、彼が預言者としての召命を、なんと母の胎にいる時に受けたことを、次のように報告しています。

「ヨシヤ王の時代に主の言葉がわたしに臨んだ。

 わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。

 母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別(せいべつ)

 諸国民の預言者として立てた。あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ

 わたしが命じることをすべて。」と。

 つまり、エレミヤは、紀元前627年に預言者としての召命を受け、ヨシヤ王(在位は紀元前640-609年)の時代に活躍したことになります。

 ここで言われている「知っていた」ですが、聖書で言われる「知る」は、単なる知識とか認識というよりも、むしろ意図的に選ぶとか愛することを意味していると言えましょう。ですから、「母の胎から生まれる前に」は、「母の胎内に造る前から」に平行しており、特に神の切なる思いを強調していると言えましょう。

 また、「聖別」とは、神に仕えるために選び分けられたことを意味しています。

 実は、その後の9節では、預言者として神によって派遣されることを次のように具体的に説明しています。

「主は手を伸ばしてわたしの口に触れ、言われた。『見よ、わたしの言葉をあなたの口に授けた。見よ、わたしは今日、あなたを 諸国の民と諸王国の上に立てた。抜き、壊し、滅ぼし、倒し、あるいは建て、植えるために。』」(同上1.9-10参照)と。

 ですから、7章では、神の民が預言者を通して与えられた神の言葉に聞き従うことの大切さを、次のように強調しています。

「『わたしに聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じたとおりの道を歩め。そうすれば、あなたたちは幸いを得る』と。」(同上7.23参照)

 

預言者は自分の故郷では歓迎されない(ルカ4.24参照)

 次に、今日に福音ですが、先週に続いてルカによる福音書の4章からの抜粋であります。

 今日の場面は、会堂での同郷人たちの反応だけでなく、なんと「イエスを町の外へ追い出し、町が立っている崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」ことを報告しています。

 では、まず、会堂内の聴衆のとった態度に注目してみましょう。

 ルカは、そのときの状況を次のように描いています。

「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』というに違いない。そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。』と。

 ここで、引用されている「医者よ、自分自身を治せ」と、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」という格言から、まず、ナザレの人々がカファルナウムからの噂で聞いたイエスの特別な業を見せてもらいたいと思っていたことを、イエスはすでに知っていたのではないでしょうか。けれども、同郷人のよしみで、彼らのイエスの近さと親しさとが、まさに彼らに特権意識を抱かせ、それによって彼らは、イエスに対する正しい判断が出来にくくなってしまったと言えましょう。

 けれども、彼らの問題は、イエスに対する親近感よりも、もっと深いところにあるのではないですか。つまり、イエスが、神の恵みを、ナザレではない他の人々、とりわけカファルナウムの人々つまり多くの異邦人に与えたということに対する憤慨(ふんがい)に他なりません。ですから、彼らの気持ちを察したイエスは、早速、旧約聖書で語られている異邦人に対する奇跡の二つの実例、すなわち「シドン地方のサレプタのやもめ」のための預言者エリヤの奇跡と、その弟子のエリシャがシリア人ナアマンを奇跡的に癒したことを引き合いに出します。

 ところが、その後のナザレの人々の極端な反応です。

「これを聞いた会堂内の人々は皆(みな)憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」と言うのです。

 まさに、会堂内にいる人々は、憤慨に興奮した群衆になり、イエスを殺害しようと行動に出たというのです。

「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」のです。

 つまり、彼らに拒絶されたから他の場所へ行こうとしたのではなく、別な場所へいくというので、拒絶されたことを確認すべきでしょう。

 このように、第一朗読と福音においていずれも預言者が登場するのですが、今日(こんにち)における預言者の代表は、教皇フランシスコではないでしょうか。

 ですから、回勅『ラウダート・シともに暮らす家を大切に』において、次のような預言的勧告を述べられています。

「他方、消極的なキリスト者もいます。自分の習慣を変えようとしない、一貫性に欠ける人たちです。従ってそうした人々皆に必要なのは『エコロジカルな回心』であり、それは、イエス・キリストとの出会いがもたらすものを周りの世界との関わりの中で証しさせます。神の作品の保護者たれ、との召命を生きることは、徳のある生き方には欠かせないことであり、キリスト者としての経験にとって任意の、或いは二次的な要素ではありません。

 アッシジの聖フランシスコの姿を思い起こすことによって私たちは、被造界との健全な関わりが、全人格におよぶ回心であることに気づかされます。・・・被造物との和解を果たすために、わたしたちは自分たちの生活を吟味し、行いや怠りによって神のものである被造界を傷つけてきたことを認めなければなりません。わたしたちは、回心、すなわち心の変革が必要なのです。」(同上217-218項参照)

 また、アメリカのトラピスト会司祭のカミングズは、つぎのような具体的な勧告をしています。

「自分のライフ・スタイルが地球とバランスの取れた状態になるように、自分の置かれた場所でできることを実行すること。まず、広告という罠(わな)から逃れ、ものを買って捨てる生活習慣を変えなければならない。ゴミを散らかさないように、他人が散らかしたものは片付けるように決心する。・・・公害の原因になっている産業の製品は買わないようにする。」(『エコロジーと霊性』255頁参照)

 今週もまた、派遣されるそれぞれの場で、神の言葉を聞き、それを出会う人々に伝えることができるように共に祈りましょう。

 

 

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