年間第3主日(神のことばの主日)C年(22.1.23)

「この聖書の言葉は  今日実現した」

今日は我らの主にささげられた聖なる日(ネヘミヤ8.10a参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、内容的には、捕囚民となったイスラエルの民がペルシャ王キュロスによって紀元前539年にバビロンから解放され、翌年に発布された「キュロスの勅令(ちょくれい)」から、紀元前432年の「総督ネヘミヤの第二次エルサレム滞在」までの約百年の歴史を描いているネヘミヤ記8章からの抜粋であります。

 しかも、今日の箇所は、紀元前5世紀の後半に総督ネヘミヤが、祭司であり書記官エズラと共にエルサレムに戻り、イスラエルの共同体を再編成した歴史的出来事を、いとも感動的に次のように描いています。

「書記官エズラは、人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼は書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。〔次いで、レビ人(びと)が〕神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」と。

 半世紀にわたる戦勝国の首都バビロンでの捕囚という民族の悲劇を体験したイスラエルの民は、律法を土台にして紀元前6世紀の終わりのころからは「ユダヤ民族」として団結できたのではないでしょうか。それは、悲劇の体験の中で自分たちが立つことが出来るのは、神の言葉しかないとの自覚のもとに聖書がまとめられたからと言えましょう。ですから、今日の箇所は、次のようにクライマックスに達します。

「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人(びと)と共に、民全員に言った。『今日(きょう)は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行ってよい肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日(きょう)は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と。

 とにかく、律法の朗読は、「夜明けから正午まで」延々と続いたのですが、それを聴いたイスラエルの民は、彼等の血の中に流れていた律法の響きが、よみがえり、まさに律法に従わなかったことを悔やむ心が涙となって流れたのではないでしょうか。けれども彼らの涙は、単なる後悔の涙ではなく、まさに自分たちの先祖たちを生かし続けてきた神の言葉に再会した喜びの涙でもあったと言えましょう。

 ちなみに、同じような体験を、預言者エレミヤが、次のように伝えてくれます。

「あなたのみ言葉が見いだされたとき、

 わたしはそれをむさぼり食べました。

 あなたのみ言葉は、わたしの血となり肉となり

 わたしの心は喜び躍りました。」(エレミヤ15.16ab参照)と。

 

貧しい人に福音を告げ知らせるために主が油を注がれた(ルカ4.18参照)

   次に今日の福音ですが、イエスが初めて故郷(ふるさと)のナザレに里帰りしたときの出来事を、次のように伝えています。

「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。」と。

 実は、ナザレに戻られる前のイエスの姿が、次のように報告されています。

「さて、イエスは、“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が回りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」と。

   つまり、ルカによれば、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、「祈っておられると、天が開かれ、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)り、天から声がした。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者』。」(同上3.21-22参照)と。

 このイエスの洗礼のドラマの最初の場面は、「天が開かれ」であり、それはイザヤが、天が開け、神が出エジプトの時のように再び来られるように祈ったこと(イザヤ63.19-64.3参照)を思い起こさせるのです。つまり、出エジプトの出来事は、救いの歴史における新たな時代の始まりに他なりません。

   第二の場面は、「聖霊がイエスの上に降り」、彼の福音宣教という任務のしるしとなる(同上4.1,14,18など)ことと言えましょう。また、聖霊こそが、教会に対して、証人となり奉仕をするという任務を実践できるためのイエスからの贈り物ではないでしょうか。

 そして、この天からの啓示のドラマの最後は、天から響いた声に他なりません。つまり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」です。

 この天からの証言は、すでに旧約時代に神の子としてのイスラエルの王の戴冠式(たいかんしき)で使われた詩編2編7節と神の僕を表すイザヤ書42章1節を結び付けたものです。ですから、この天からの声が、イエスの宣教の始まりに先立っており、また、山上のご変容では、エルサレムと死への旅立ちに先立って、天からの声がイエスを神の子である(同上9.35参照)と断言しているのです。

 従って、聖霊こそがイエスを宣教へと駆り立てる原動力となり、イエスは聖霊に導かれ荒れ野へ行き(同上4.1参照)、「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」のであります。しかも、ナザレでのイエスの宣教活動は、すべてユダヤ教の範囲内の事柄と言えましょう。つまり、イエスは、その信仰深さから、安息日や聖書や会堂を大切にしました。ですから、会堂の礼拝には定期的に出席し、成人男子皆に認められるやり方でそれに参加し、聖書を朗読し、それを解釈したのであります。

   したがって、今日の場面では、「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のような箇所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人には視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』」と。

 イエスは、このイザヤ書61章1節から2節を朗読なさることによって、まさに預言の成就を宣言なさっただけでなく、ご自分の救い主としての役割を明確になさったと言えましょう。ちなみに、イザヤ書61章は、苦難の僕の歌であり、「わたしに油を注がれた」というのは「わたしをキリストあるいはメシアとした」ということに他なりません。

 ですから、キリストとは、貧しい人や抑圧されている人、投獄されている人たちに生きる希望と望みを実現させる神の僕と言えましょう。

 しかも「この聖書の言葉は、今日(きょう)、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、イエスの救いの御業(みわざ)の現在化つまり預言者をとおして語られたことが、イエスによって今日(きょう)実現したことを強調しているのです。

 ですから、わたしたちも特にミサにおいてイエスのお言葉が、今日の出来事になることを、体験できるからこそ、派遣されるそれぞれの場で、福音を証しすることができるように共に祈りましょう。

 

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