「最初のしるしをガリラヤのカナで行って その栄光を現された」
王はすべてあなたの栄光を仰ぐ(イザヤ62.2参照)
紀元前538年から始まった捕囚地バビロンからの第一陣のエルサレムへの帰国から、神殿が奉献された515年の間に活躍した第三イザヤは、主なる神がもう一度御顔(おかお)をご自分の民に向けられた、という知らせを、次のように呼びかけ続けます。
「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず。
エルサレムのために、わたしは決して沈黙を守らない。
その正義が光と輝きのように出(い)で、
彼女の救いが松明(たいまつ)のように燃え上がるまでは。
諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
主の口が名付けた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。」と。
ここで、言われている「光と輝き」という象徴に加えて、来るべき栄光を、エルサレムに再び保証するというのであります。さらに、預言は続きます。
「あなたは再び『すてられた女』と呼ばれることなく
あなたの土地は再び『荒廃』と呼ばれることはない。
あなたは『望まれるもの』と呼ばれ
あなたの土地は『夫を持つもの』と呼ばれる。
主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである。
若者がおとめを娶(めと)るように
あなたを再建される方があなたを娶り
花婿が花嫁を喜びとするように
あなたの神はあなたを喜びとされる。」と。
まさに、若い花婿と花嫁のように、主なる神とエルサレムが喜びに包まれて結ばれると同時に、この婚姻のような関係のうちに、悲しい古い名前に代えて新しい名前を、主なる神が特別にエルサレムに与えてくださると言うのです。
一人一人に“霊”の働きが現れるのは全体の益となるためです(1コリント12.7参照)
次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロが自(みずか)ら創立したコリントの教会が、派閥争いで分裂の危機に立たされていたので、直接指導に出向いて行く代わりに、重要な勧告を、次のように手紙にしたためました。
「皆さん、賜物(たまもの)にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。・・・一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言(いげん)を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。」と。
この箇所は、深刻な問題を抱えていたコリント教会の信者たちからの質問に答えている手紙の中核をなす部分と言えましょう。
ここで言われている「賜物(たまもの)」ですが、ギリシャ語の原語では、「カリスマ」と言い、聖霊の特別な恵みであり、共同体全体の益となるために各々がいただいているのです。ですから、これらの「賜物」は、種々多様であっても同じ一つの霊即ち聖霊からの恵みなので、共同体をますます一致させると言えましょう。
従って、11節では、次のように強調しています。
「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」と。
ちなみに使徒パウロは、共同体が成長するために、各々が分に応じて働くべきことを、次のように主張しています。
「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々(ふしぶし)が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4.12-16参照)と。
それで弟子たちはイエスを信じた(ヨハネ2.11参照)
続いて今日の福音で、福音記者ヨハネは、奇跡の代わりに「しるし」という言葉を用いて、カナでの「最初のしるし」を、ドラマチックに描いています。
まず、場面設定ですか、舞台は、ガリラヤ湖の西ナザレ北14キロのところにある町カナでの婚礼の祝宴であります。そこには、イエスとその母、また弟子たちも招かれていました。丁度、祝宴が盛り上がったときです。なんと、肝心のぶどう酒がなくなったというのです。しかも、その事に気づいたのは、母マリアでした。そこで、母は、早速、イエスに報告します。「ぶどう酒がなくなりました。」と。
ところが、イエスは、意外な返事をなさいます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と。
まず、息子が自分の母親に向かって「婦人よ」と、呼びかけるのは極めて奇妙であり、そのような例は他にはありません。
しかも、「わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と、その返事の理由を説明なさいます。
つまり、イエスの「時」は、ヨハネにとって「イエスの死と復活によって実現するイエスの栄光の時」に他なりません。
ですから、「婦人よ」という呼び掛けは、イエスが十字架の上から、「母とその傍の愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、この人はあなたの子です』」(同上19.26参照)と、最後の力を出し切って宣言なさいます。
また、ちなみに、預言者は、メシアの時代には、多量のぶどう酒で満ちあふれると、前もって預言していました(アモス9.13-14参照)。
ですから、このメシア的な枠組みにおいて、ぶどう酒はイエスの知恵と教えを表していると言えましょう。
また、母マリアの、召使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」というご命令は、イエスの理想的な弟子を訓練するために極めて重要ではないでしょうか。
さらに、「ぶどう酒がなくなりました」というマリアの言葉は、恐らくユダヤ教の限界をほのめかしたと、ヨハネが解釈したのかもしれません。
とにかく、毎週、ミサを共に捧げることが出来る私たちは、死を通して復活なさった主と共に、福音宣教のためにそれぞれの場に派遣されることを自覚し、イエスを証し続けることができるように共に祈りましょう。
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