主の洗礼・C年(2022.1.9)

「あなたはわたしの愛する子 私の心に適う者」

慰めよ、わたしの民を慰めよ(イザヤ40.1参照)

    紀元前538年に終わるバビロン捕囚の末期(まっき)の時代を生きた第二イザヤは、捕囚民に向かって次のような慰(なぐさ)めと希望のメッセージを預言しています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと

 あなたの神は言われる。

 エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ

 苦役(くえき)の時は今や満ち、彼女の咎(とが)はつぐなわれた、と。」

 第二イザヤのメッセージの原点(げんてん)にあったのは、ペルシヤの王キュロスのオリエント世界における新たな台頭(たいとう)という出来事に他なりません。

 なんと、この王は、捕囚地バビロンを目指して、刻々と接近していますが、彼こそが、まさに捕囚民の解放のために主なる神が派遣した人物に他なりません。ちなみに、45章の1節で、キュロスに「油注がれた者」というタイトルをつけています。

 ですから、第二イザヤは、冒頭で、「慰めよ」という切なる神の叫びを伝えることが出来たのです。

 ここで、「エルサレム」は、捕囚民を表し、「苦役(くえき)の時」は、捕囚を指していますが、確かに、捕囚民の中で指導的役割を担(にな)った祭司たちですが、イスラエルの民の過(あやま)ちと罪のために捕囚という試練を与えられたと受け止めていました。

 ところが、それはすでに過去のことであると言うのです。なぜなら、今や、確かに苦役(くえき)の時は終わり、まさに慰めの時が、始まろうとしているからです。

 このように、第二イザヤのメッセージの特徴は、今こそ時の転換期(てんかんき)であり、神は苦役を終らせ、慰めを与えようと決心なさったことに他なりません。

 ここで確認できることですが、罪の赦しの捉(とら)え方(かた)も変えられたのではないでしょうか。たとえば、44章21節から22節において、次のように強調しています。

「思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、

 あなたはわたしの僕(しもべ)

 わたしはあなたを形づくり、

 わたしの僕(しもべ)とした。

 イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。

 わたしはあなたの背きを雲のように、

 罪を霧(きり)のように吹き払った。

 わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖(あがな)った。」と。

 まさに、「吹き払った」も、「贖った」もすでに神が実行なさったことだと主張しています。

 ですから、「立ち帰る」ことが、「罪が吹き払われ、贖われる」ための条件ではなく、神が、民が悔い改めるよりも先に、なんと、罪を吹き払い、贖ってしまい、その後で「立ち帰れ」と呼びかけておられることを確認できるのではないでしょうか。

 まさに、罪の無償の赦しが強調されているのですが、これこそ苦役から慰めの時へと根本的に転換されたので、捕囚民の回心を待つのではなく、救いのために妨げとなる罪を、先に神がまさに無償で吹き払ってしまうからです。

 ですから、捕囚民に期待されていることは、自分たちの罪がすでに神によってすっかり吹き払われたことを信じるまさに信頼だけと言えましょう。

 

永遠のいのちを受け継ぐ者とされた(テトス2.7参照)

 次に今日の第二朗読の後半で、洗礼について次のように宣言されています。

「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造り変える洗いをとおして実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義(ぎ)とされ、希望どおり命を受け継ぐ者とされたのです。」と。

 ちなみに、使徒パウロは、ローマの教会への手紙で、洗礼について次のように強調しています。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(同上6.4参照)と。

 

天が開け聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た(ルカ3.22)

 最後に、今日に福音ですが、本日の祭日の場面を、荘厳に描いていると言えましょう。

 ここで、ルカは、まずイエスの先駆者ヨハネを、次のように登場させます。

「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。』と。

 ここで言われている「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」は、ルカの文脈では、明らかに「聖霊降臨」を意味しています。また、洗礼者ヨハネが授けていた「水による洗礼」は、イエスがお授けになる「救いをもたらす聖霊の洗礼」への準備としての罪からの回心の洗礼と言えましょう。

 さらに、イエスが、ヨハネから「洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者』という声が、天から聞こえた。」というくだりですが、「天が開け」は、ユダヤの黙示文学では神の隠れた神秘を神自(みずか)らが明らかにする啓示(けいじ)を意味します。また、「鳩」は、イスラエルの民を表しています。

 ですから、イエスは、洗礼によってイスラエルの民の代表として民全体を、ひいては全人類を導く霊と力を授かったと言えましょう。

 従って、イエスの洗礼を受けた私たちに、マタイは次のようにイエスのご命令を伝えています。

「あなた方は、すべての国の人々を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。

 教皇フランシスコは、この主のご命令を次のように、確認なさっておられます。

「洗礼を受けた神の民のすべてのメンバーは、宣教する弟子となりました。・・・イエス・キリストに於いて神の愛を体験したからには、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・もちろん、わたしたちは皆、福音宣教者として成長するよう呼ばれています。そして同時に、より充実した養成を受け、愛を深め、福音をより明確に証しすることを望んでおられます。・・・主は、わたしたちの不完全さを超えて近づいてくださり、みことばとご自分の力と、生きる意味を与えてくださいます」(『福音の喜び』120-121項参照)

 

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