主の公現・C年(2022.1.2)

「異邦人がキリスト・イエスによって 同じ約束にあずかる者となる」

  初めに、本日の祭日の由来を振り返って見ましょう。

  教会は、家畜小屋で貧しくお生まれになった救い主イエスを、降誕祭で盛大に祝い、今日(きょう)は、東方の博士たちによって公に礼拝された王であるキリストを、またあらためて祝うのであります。

 今日(きょう)の祭日ですが、既に4世紀の後半になると、東方教会だけでなく、西方教会においても普及し、ガリア、スペイン、北イタリアを経てローマに達したのであります。実は、ローマではすでに定着していた主の降誕祭と平行して公現祭が祝われるようになりました。ですから、エルサレムでは、1月6日には、まず、ベツレヘムの真夜中のミサでイエスの誕生を祝い、其の後エルサレムへの行進行列を行っていました。

 

人々は皆黄金と乳香を携えて来る(イザヤ60.6b参照)

   それでは、いつものように今日の聖書朗読箇所を、順に振り返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、イザヤ書の60章からの抜粋であります。

 ちなみに今では、66章あるイザヤ書を、編集者と編集年代によって三つに分け、便宜上第一イザヤ(1章から39章)、第二イザヤ(40章から55章)、第三イザヤ(56章から66章)とに分けています。

 さらに、この第三イザヤは、56章から59章の第一部で真(まこと)の礼拝と偽りの礼拝について、また、60章から62章の第二部で栄光の新しいシオンと油注がれたもの(メシア)についての預言となっています。

 ですから、今日の箇所は、この第二部の最初の章となります。

 ちなみにこの第三イザヤは、紀元前6世紀の捕囚時代に、捕囚民に向かって希望と慰めのメッセージを預言しています。

  しかも今日の箇所では、主なる神がエルサレムに救いを呼び掛ける言葉で、次のように預言しています。

「エルサレムよ、起きよ、光を放て。

 あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。

 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。 

 しかし、あなたの上には主が輝き出(い)

 主の栄光があなたの上に現れる。」と。

 このように、エルサレムは、主なる神による救いと贖(あがな)いの業が間近(まぢか)に迫っていることが告げられるのです。

 また、ここで言われている「光」、「栄光」、「輝き」は、繰り返し使われるキーワードで、いずれも神の栄光の輝きを表しています。

 ですから、悲しみは喜びに、恐怖と不正は、平和と正義に場を譲(ゆず)ることになると言えましょう。さらに預言は続きます。

「国々はあなたを照らす光に向かい

 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。

 目を上げて、見渡すがよい。

 みな集い、あなたのもとに来る。

 息子たちは遠くから、娘たちは抱(いだ)かれて、進んでくる。

 そのとき、あなたは恐れつつも喜びで輝き

 おののきつつも心は晴れやかになる。

 ・・・

 らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが

 あなたのもとに押し寄せる。

 シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。

 こうして、主の栄誉が宣(の)べ伝えられる。」と。

 ここでいわれている「ミディアン」ですが、遊牧のアラビア人のことで、「シェバ」は、ソロモン王を訪問したシェバの女王で有名になった地名です。

 また、「黄金と乳香を携えて来る」は、きょうの福音と見事に繋がります。

 

彼らはひれ伏して幼子を拝み贈り物を献げた(マタイ2.10b参照)

 次に、今日の福音ですが、マタイによる福音書の2章からの抜粋であります。

 まず、マタイは、ヘロデ王の時代にイエスがベツレヘムでお生まれになったことを確認し、そこへ遠い東方の国から、占星術(せんせいじゅつ)の学者たちが、イエスを拝みに来たことを伝えています。

 ここで登場する「占星術の学者」ですが、ペルシャないしバビロニア地方の学者兼祭司で、占星術や夢占いなどを行っていた人々と考えられます。

 しかも、東方では、メシア自身がなんと星として表現されていたので、占星術の学者たちが、その不思議な星を発見し、早速、遠くからはるばるイエスを拝みに来たと考えられます。

 ところで、これを聞いたヘロデ王だけでなく、エルサレムの人々までもが、なぜ「不安を抱(いだ)いた。」のでしょうか。

 特にヘロデ王ですが、彼の王としての権利を否定するメシア運動を恐れていたことが、原因と考えられますが、エルサレムの人々は、ヨハネ福音書が語るように、「み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1.11参照)ことに、由来するのでしょうか。

 とにかく、ヨハネによれば、イエスを受け入れるためには、霊の助けが必要なのです。ですから、ヨハネは、次のように強調しています。

「すなわち、人となって来られたイエス・キリストを認める霊はみな、神から出たものです。イエスを告白しない霊は、神から出たものではありません。・・・神は独り子を世に遣わされました。それは、わたしたちがこの方(かた)によって生きるようになるためです。・・・愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。未だかつて神を見た者はいません。しかし、わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネ一、4.2-12参照)と。

 また、東方の学者たちのように、救い主イエスを礼拝するだけでなく、人々に告げ知らせる使命を全うし、今年一年かけて福音宣教に共同体ぐるみで励むことができるように、教皇フランシスコは、次のように呼び掛けておられます。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは、新しい土地へと出発するようにという呼びかけを受け入れました。(創世記12.1-3参照)

 モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3.10参照)という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。(同上3.17参照)…

 今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というご命令は、教会の宣教のつねに新たされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新たな『出発』に呼ばれています。・・つまり、自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです。」(『福音の喜び』20項参照

 

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