主の降誕(日中のミサ)2021.12.25

「み言葉は人間となり われわれの間に 住むようになった」

地の果てまで すべての人が神の救いを仰ぐ(イザヤ52.10b参照)

  紀元前6世紀、イスラエルの主だった人々が、バビロニア帝国の首都バビロンの近郊に強制移住させられていたいわゆる捕囚時代に、第二イザヤと呼ばれる無名の預言者が、捕囚民に向かって次のように預言したのです。

「いかに美しいことか

 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

 彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

 救いを告げ

 あなたの神は王となられた、と

   シオンに向かって呼ばわる。」と。

 実は、52章の1節から10節までのメッセージは、

(1)捕らわれの娘シオンへの呼びかけ、女王としての新しい生き方に備えるよううながす。

(2)イスラエルが受けた束縛と贖いの歴史を振り返る主なる神のことば。

(3)廃墟となったエルサレムを告げ知らされる良い知らせ、でなりたっています。

 ですから、上の預言の言葉は、三番目のメッセージに当たります。

 ここで言われている「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」のくだりは、いよいよ捕囚から帰ってきたイスラエルの行列がエルサレムの北の丘に近づく様子を告げていると言えましょう。

 しかも、それは「平和を告げ、恵みの良い知らせをつたえ 救いをつげ、あなたの神は王となられた」というメッセージを携(たずさ)えているのです。

 したがって、次のように呼びかけることが出来るのです。

「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。 

 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」と。

 

父の独り子としての栄光であって 恵みと真理とに満ちていた(ヨハネ1.14b参照)

 それでは、今日の福音を、フランシスコ会訳で説明します。

 ちなみに、この序文にあたる箇所(1節から18節)ですが、福音記者ヨハネの神学で一つの大きな救いの循環つまり、み言葉である御子は、天からわたしたちの領域にまで降り、また天の御父の高みにまで私たちを連れて昇って帰られるという救いの壮大な旅を描いていると言えましょう。

 そこで、まず、「初めに言(ことば)があった。」を、「初めにみ言葉があった。」に訳し変えます。また、この「初めに」ですが、創世記の1章1節でも使われていますが、この「ロゴス賛歌」(初代教会ですでに歌われていた賛美歌)においては、創造者としての「み言葉」の地位を示していると言えましょう。つまり、万物の創造においてみ言葉はすでに創造主なる神とともにおられたという主張です。

 ですから、3節で、「すべてのものは、み言葉によってできた。できたもので、み言葉によらずにできたものは、何一つなかった。」と、断言できるのです。

「み言葉の内に命があった。この命は人間の光であった。」ですが、まさにみ言葉こそが、万物が存在し続け、成長できるための生命力の源泉になっているのです。

「光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。」ですが、ちなみに旧約聖書では、「闇」は、「死」との関連で用いられています。ここでは、キリストを故意に受け入れない人々を指している(3.19;12.46参照)と言えましょう。ですから、闇(悪の力)とユダヤ人がイエスを拒絶したことを示しています。

 しかしながら、世の真(まこと)の光は、彼が創造して世界のただ中に入って来られたのです。けれども、人間の罪によって悪に方向づけられた世は、彼を拒絶しました。彼は自分の国へと来られ、また、モーセと預言者が彼の到来に備えて準備させて来た人々も、彼を拒絶したのです。

 つぎに、10節からは、「み言葉はこの世にあった。この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名と信じる者には、神の子となる資格を与えた。彼らは、血によってではなく、人間の意志によってでも、男の意志によってでもなく、神によって生まれた。」となります。

 ですから、み言葉を信じる人々は救われ、神の子となることを可能にしたのです。まさに、創造主なる神がアダムに命の霊を吹き込んだように、その御子(おんこ)は、これらの人々に彼の新しい命(いのち)の霊を吹き込んだのです。まさに、神を拒絶した古い人々に変わる新しい創造と言えましょう。

 すなわち信じる者とは、御父が御子の与えた人々であり、神の善い業を行うときに、自らを明らかにするように、あらかじめそのような摂理に定められた人々にほかなりません。

 つぎに、「み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。われわれはこの方の栄光を見た。父のもとから来た独り子としての栄光を見た。父のもとから来た独り子としての栄光である。独り子は恵みと真理に満ちていた。」と。

 ここでいわれている「み言葉は人間となり、」ですが、新共同訳のようにギリシャ語のlogosを直訳しますと、「肉」となります。この肉は、もろい死すべき人間を指します。

  また、「住むようになった。」ですが、ギリシャ語からの直訳では、「天幕を張った」となり、旧約聖書で語られているように、主なる神はかつてイスラエルの民の幕屋(神の住まい)を建てさせ、そこに臨在したことに由来します。

 また、エルサレムの神殿も、神の民イスラエルの間にある神の現存の座、つまり神の栄光の座でした。

 ですから、み言葉である御子の肉体は、まさに神の現存と栄光を最高度に具現化している特別な場となったと言えましょう。

 さらに16節からは、次のように続きます。

「われわれは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理とは、イエス・キリストを通してもたらされた。神を見た者は、いまだかつて一人もいない。父のふところにいる独り子である神、この方が、神を啓示されたのである。」と。

 み言葉と、十戒は、神の古い契約におけるまさに神の慈しみの表現として、モーセのためにシナイ山で石に刻まれました。

 今、神のみ言葉は、新しい契約における神の慈しみの具現化として、イエスの肉の内に刻まれていると言えましょう。

 神はモーセに、旧約時代にはイエスを見せませんでしたが、まさに永遠の昔から神と共におられた独り子が、その神をわたしたちに示してくださるのです。

 ですから、わたしたちの日々の生活のただ中におられるみ言葉を、忠実に、お迎えし、み言葉に忠実に聞き従うことのできる信仰の生き方を、生涯かけて全うできるように共に祈りましょう。

 

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