七十五回目のクリスマス

初めてのクリスマス

 初めてカトリック教会を訪ねたのは、小学六年生の夏休みであった。

 それは、母がある日突然、三人の子どもたちに「教会に行きなさい」と一方的に命じたからである。

 当時、我が家は母方の親戚を頼って旧満州から引き上げてきて、それまで同居していた親族から離れて、教会近くの一戸建てに越してきたときである。

 実は、子ども三人を教会に通わせる決心をした母は、彼女の曾祖父が小高町に隣接する村で広い屋敷を構えていた熱心なクリスチャン(日本キリスト教団小高教会所属)の影響を受けていたからではないだろうか。とにかく、この曾祖父は、村人たちを集めて、仙台から牧師先生をお招きして、聖書を聴かせていたようで、また物乞いや旅芸人をねんごろにもてなしていたことから、村人からは「アブラハム」と、呼ばれていたそうである。

 彼の墓には、十字架と聖書の言葉が刻まれている。

 実は、このように、唐突な母の命令に従って教会に行ったのだが、何せ、それまでは、われわれ三人の子どもたちにとって、教会はまさに未知の別世界なので、教会の玄関にたどり着いただけで、中には入らず、こそこそと戻って来てしまったのである。

 そこで母は方法を変えて、「お小遣いあげるから、今度は中に入っていろいろ教えてもらいなさい」と勧めてくれた。

 丁度、夏休みで子どもの集いがあり、皆が楽しそうだったので、たやすく教会に馴染めたようである。

 とにかく毎週、母は、主任司祭(フランシスコ会の厳しいドイツ人の宣教師)から直接、われわれ子どもたちは、若い伝道婦の指導を一年間受け、その年のクリスマスに家族揃って受洗したのである。

 したがって受洗の出来事が中心で、クリスマスをどのように祝ったのか、全く記憶には残っていない。

 

原町教会でのクリスマス

 原町市(現在の南相馬市)にカトリック教会が創立されたという記事を『カトリック新聞』で確認し、主任司祭の許可をいただき、我が家は、父母方の郷里である福島県の相馬郡に戻って来た。

 この決断をした母はおそらく、子どもたちの将来の教育のことを考え、北海道から郷里に戻る決意をしたのではないだろうか。

 申し遅れたが、父は旧満州の役人で、最初単身赴任で、三年後には家族を帯広から呼び寄せたが、何せシナに近い僻地での激務がもとで、それまでは全く病気を知らなかった彼は、とうとう結核にかかり、正規の医者も病院もない異国の地で、三十四年の短い人生を全うしたのである。

 父方でクリスチャンは、父の弟博叔父のたったひとりであった。彼はおそらく北大時代にプロテスタント教会で洗礼を受けたが、若くして肺結核で亡くなっている。

 とにかく信仰の伝達は、家族を通してというのが、旧約時代からの変わらぬ伝統と言えよう。

 

高校時代のクリスマス

 北海道の帯広教会から原町教会に転籍したのは、中学二年の春であった。

 最初の一年は、原町に住む家が見つからず、小高の親戚の家に一家で居候の生活だった。

 だから原町教会に通うのは難しかったが、時折、主任司祭が、ジープで若者たちと一緒に家庭訪問をなさったので、我が家の信仰は、辛うじて続けることができたといえよう。

 高校は県立原町高校だったが、クリスマスは、深夜ミサの後、内陣をステージに見立てて、劇や歌など、飛び入りも含めクリスマス会を盛り上げ、その後は徹夜で楽しいひとときを過ごしたのが、高校時代のクリスマスの祝い方だった。

 その時代には、教会に主に高校生を中心に若者たちが集まっていたが、聖書の学びなどは全くなかった。

 

カナダのクリスマス

 高三の時、大阪大司教区の総代理であった小林有方師が、浦川司教の後任として仙台教区司教となられた叙階式には、原町教会代表として参列した。

 叙階式の後、白百合学園の講堂で、小林司教は、大阪大司教区の田口大司教と京都教区の古谷司教の三人で講演会を主催なさったのが、小林司教の第一印象である。

 そこで仙台教区長になられた小林司教がすべての小教区を、公式訪問なさった時、原町教会でも歓迎会を催した。その席上、教会代表として拙い挨拶をさせられ、その後、司教に廊下で話しかけられたのである。

「君、君、これからの目標は?」

「とりあえず、東北大の工学部の受験準備の最中です」

「君、どうだい。上智を受けてみないかい。上智に入れば神学校にも入れるよ。そして、チャンスがあれば、留学もできるよ。とにかくよく黙想して、若しくは決心がついたなら司教館に来なさい」と。

 長男である私は、まず、母親にそのことを相談したところ、何と実は、母も私が、司祭になることを密かに望んでいたというのである。当時、神学校の養成期間は、高校卒業してから、上智でまず二年間ラテン語を徹底的に叩き込まれ、その後二年間すべてラテン語でスコラ哲学を学んでいた。

 とにかく、東京カトリック哲学院に入学すれば、同時に上智の文学部スコラ哲学科に入学できたのである。

 哲学科を卒業した夏に、当時オタワのリユミヨ大司教(仙台教区の初代司教長)の計らいによって、私はオタワ大神学校に転校し、リユミヨ大司教によって、叙階され、更に聖パウロ大学院で学ぶことができた。

 カナダでの七年間はすべての面で大変恵まれていた。

 特に、クリスマスシーズンには、神学校の友人たちの家庭で過ごすことが殆どであったので、クリスマスはまさに家族の祝日であり、家々の庭はきらびやかなイルミネーションで飾られていた。

 

地域の人たちと共に祝うクリスマス

 地方の小さな教会で心掛けたのは、地域の人たちと共に祝う開かれた降誕祭にすることであった。県北の小さな教会では、カトリック幼稚園を卒園した中高生たちのバイオリン教室のメンバーが、是非聖歌を聖堂でひかせてとミサに参加した。また男子、女子の高校の合唱部が、降誕祭の祝会で歌ってくれた。

 とにかくクリスマスシーズンには、チラシによってまず、クリスマスという言葉は「キリストの誕生を祝うミサ」を表わすchrist massの合成語であることを説明し、是非ミサと祝会に参加するよう呼び掛けることによって、多くの地域の方々と共に祝う降誕祭になることを信者と共に毎年準備を重ねていた。

 教皇フランシスコが、近年、訴えておられる「出向いていく教会」になれるように、根本的に教会の在り方の姿勢転換のひとつの試みになればと願っている。

 

※カトリック畳屋丁教会の会報に掲載の記事です。

 

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