待降節第1主日・B年(2020.11.29)

「気をつけて、目を覚ましていなさい」

 昨日の「教会の祈り」の待降節第1主日前晩の祈りから、B年の待降節が始まりました。

 ですから、今日は、B年の待降節第1主日を祝います。

 ちなみに、この待降節は、前半では特に再臨のキリストを迎える準備に勤しみ、後半において改めて救い主の誕生を、待ち望むことに集中するのが、典礼上の心構えと言えましょう。

 

どうか、天を裂いて降(くだ)ってください(イザヤ63.19b参照)

  それでは、早速、今日の第一朗読を振り返ってみましょう。

 このイザヤ書63章ですが、便宜上第三イザヤと言い、おそらく紀元前6世紀初頭にエルサレムで活躍した無名の預言者によって編集されたと考えられます。

 ちなみに、そのメッセージは、イスラエルの民が50年ぶりに故国に捕囚地から戻ったのですが、約束されていた神の栄光らしきものがさっぱり実現しそうもない現実に失望し、人々はとうとう神への信頼をも揺らいでしまい、それぞれ自分勝手な生き方に陥ってしまったと言うのであります。

 ですから、第三イザヤは、次のようにしきりに神に懇願(こんがん)します。

 「どうか、天を裂いて降ってください。・・・

 あなたが降られれば、あなたの御前に山々は揺れ動く。

 あなたを待つ者に計らってくださる方(かた)は

 神よ、あなたのほかにはありません。・・・

 喜んで正しいことを行い

 あなたの道に従って、あなたを心に留める者を

 あなたは迎えてくださいます。

 あなたは憤られました、わたしたちが罪を犯したからです。

 しかし、あなたの御業(みわざ)によって、わたしたちはとこしえに救われます。」と。

 

主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます(一コリント1.7参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、第三宣教旅行中にエフェソからコリント教会へしたためた手紙の冒頭の抜粋であります。

 実は、このコリント教会ですが、使徒パウロが、第二宣教旅行中に、彼自身が創立したのであります。ところが、その教会で、なんと派閥により分裂騒ぎがあり、彼自身がその深刻な問題解決のために出向いて行けなかったので、手紙によって、次のように励ましたのであります。

 「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。

 こうして、キリストについての証しが、あなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けることころがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」と。

 とにかく、この待降節中、わたしたちが心から待ち望むのは、他でもない「主イエス・キリストの現れ」に他なりません。つまり、マンネリ化した信仰状態から、日々、現にわたしたちのただ中に現存しておられるイエスが、まさに直接働きかけてくださることを実感しなければなりません。

 実は、このような願いを、使徒パウロは、エフェソの信徒に宛てて次のように切々としたためております。

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根差し、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされますように。」(エフェソ3.16-19参照)と。

 

気をつけて、目を覚ましていなさい(マルコ13.33参照)

  最後に今日の福音ですが、マルコによる福音の13章からの抜粋でありますが、実は、この13章は、「小黙示録」と呼ばれるイエスが残された教えをまとめた箇所であります。

 ですから、今日の福音は、この「小黙示録」の結びの箇所に他なりません。

 そして33節の「気をつけなさい」ですが、直訳すると「見なさい」となりますが、まさに信仰においてマンネリ化することなく、しっかりと終末つまり救いの偉大な完成(パルーシア)を目指して日々精進すべきことを強調しているのではないでしょうか。

 ですから、開口一番、イエスは強調なさいます。

 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。・・・主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなた方に言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」と。

 つまり、わたしたちが日々の生活に流されないで、信仰において目覚めて、主の呼び掛けに忠実にお答えすることに他なりません。

 それは、各自が信仰の耳をそばだてて、イエスが語るおことばに耳を傾け、聞いたことを実際に行動に移すことではないでしょうか。

 それは、さらに共同体ぐるみで主の呼び掛けに忠実にお応えすることに他なりません。ですから、教皇フランシスコは、近年、教会が内輪向きの閉鎖集団の状態から、まさに「出向いて行く教会になるように」、次のように切々と訴えておられます。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと出て行くようにと言う呼びかけを受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』と言う神の呼び掛けを聞いて、民を約束の地に導きました。神はエレミヤに言います。『わたしはあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行け』

 今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』という言葉は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めている道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけにこたえるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要とする隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれているのです。」(『福音の喜び』20項参照)と。

 今週もまた、聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校そして地域社会において福音を告げ知らせることができるように共に祈りましょう。

 

 

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