王であるキリスト・A年(2020.11.22)

「人の子はその栄光の座に着く」

王であるキリストの祭日のテーマ

  1925年、時の教皇ピオ11世は、「われらの主イエス・キリスト、全世界の王の祭日」を、毎年10月の最後の日曜日に祝うことを、定められました。その後、典礼歴年の新しい原則によって、年間最後の主日に移されました。

 それでは、今日のミサの主題「イエス・キリストは油注がれた王である」について、今日の朗読聖書の個所を手がかりに振り返ってみましょう。

 まず、今日の福音ですが、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く」と言うくだりで始まっており、再臨のイエスつまりキリストが行う全人類の最後の審判についていとも荘厳(そうごん)に語っております。

 そこで、キリストは、地上のすべての民を呼び集め、なんと、すべての国民を右と左に分け、それぞれに判決を言い渡します。ちなみに、この左右に分けることに関しては、パレスチナ地方の牧畜が背景にあるといえましょう。つまり、牧草地に放牧しておくときには、羊も山羊も一緒ですが、夕方、牧場(ぼくじょう)から家に戻ったときには、小屋に入れる山羊と、外の囲いの中に入れられる羊とは、はっきりと分けられねばなりません。

 ところで、判決を言い渡す時には、「王」という称号が使われます。

 ちなみに、イエスが、最後にエルサレムに入城なさったときにも、ルカとヨハネは、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マタイ21.9参照)の後に「王に」(ルカ19.38;ヨハネ12.13参照)を、付け加えております。

 つまり、イエスこそ、メシア(油注がれた者)なので、王(油注がれて者)でもあると言う聖書の伝統に基づく(もと)のであります。

 ところでイエスの十字架上の罪状書きに「ユダヤ人の王」と書いたのは、あきらかにイエスを侮辱するために書いたのであります。(マルコ15.26参照)

 確かに、常識に従うならば、王は、権威と力に満ちたまさに神的な存在なので、十字架上で苦しみもだえる人物を王と呼ぶことなど、まさに想定外と言えましよう。

 ですから、パウロは、地上におけるイエスに対する人々の見方は、正反対に分れます。つまり、十字架がなんとこの地上に分裂をもたらすと言うのであります。それを、パウロは、次のように説明しています。「十字架のことばは、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求めますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣(の)べ伝えています。即ち、ユダヤ人には躓(つまず)かせるもの、異邦人には愚(おろ)かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(コリント一,1.18-24参照)と。

 

わたしが私の群れを養い、憩わせる(エゼキエル35.15参照)

  ここで改めて、今日の第一朗読つまり、エゼキエル書の34章を振り返ってみましょう。

 ちなみに、エゼキエルは、捕囚時代(紀元前587-538年)に捕囚地バビロンの近くで活躍した預言者ですが、試練の最中にある捕囚民にまさに希望と慰めのメッセージを預言したのであります。

 ですから、今日(きょう)の箇所つまりエゼキエル書34章では、神ご自身が牧者となって自(みずか)ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊が散らされているときに、その群れを探すように、わたしは自分の群れを探す。・・・わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包む」のであります。

 

主はわれらの牧者(詩編23.1参照)

  次に今日の答唱詩編ですが、おなじみの詩編23編からの抜粋ですが、最初の三つの節に絞って説明してみましょう。

 まず、冒頭句の231節「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」とは、羊が、自分を導いてくれる羊飼いに対して全面的な信頼を宣言します。羊飼いの務めである「導く」、「守る」、「養う」を、これまでの自分の人生の旅路においてどのように主に導かれ、守られ、養われて来たことかを、感謝をもって振り返ることができるのではないでしょうか。

 次に、今日の個所である232a「神はわたしを緑の牧場(まきば)に伏させ、」ですが、「主はわたしを緑の牧場に憩(いこ)わせ」と言う訳もあります。

 実は、砂漠地帯が広かる中近東では、渇き切った大地ですが一度(ひとたび)雨が降ると眠っていた種が、一斉に芽を出し、あたり一帯がたちまちみずみずしい野原に変わるのです。

 次に、「憩いの水辺に伴われる。」ですが、まず、「水」こそは、「いのちの源(みなもと)である神」を暗示(あんじ)していると言えましょう。ですから、詩編42編3節では、「神に、いのちの神に、わたしの魂は渇く。いつ御前(みまえ)に出て 神の御顔(みかお)を仰(あお)ぐことができるのか」と、歌います。

そして、3節「神はわたしを生き返らせ、いつくしみによって正しい道に導かれる。」と歌います。ここで言われている「魂を生き返らせ」ですが、まさにいのちの蘇(よみがえ)りであり、つまり復活体験を暗示していると希望的見方も出来るのではないでしょうか。

 

わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは(マタイ25.40b参照)

 それでは、最後に今日の福音によって締めくくりましょう。

 マタイ福音書の24章36節から25章46節において、たとえを用いて主の再臨つまり終末に向けて私たちの基本的生き方について、次のような決定的な判決(はんけつ)が下されます。すなわち、人の子が再臨(さいりん)し、すべての国の民に、最後の審判が下されます。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。

『さあ、わたしの父に祝福された人達、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』・・・そこで、王は答える。『アーメン、わたしはあなたたちに言う。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と。

 今週もまた、聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、愛の実践に励むことが出来るよう共に祈りましょう。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com