年間第33主日・A年(2020.11.15)

 「貧しい人のための世界祈願日」

貧しい人に援助の手を差しのべよ(シラ7.32参照)

   教皇フランシスコは、すでに四年前から、年間第33主日を、「貧しい人のための世界祈願日」に定められました。

 ですから、今日(きょう)のために、長い熱きメッセージを、全世界の教会に宛てて送っておられます。

 そこで、今日の説教は、この教皇メッセージのさわりの個所を、まとめるという形式にかえさせていただきます。

 最初に、旧約聖書続編にあるシラ書(集会の書)から、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」を、引用なさってメッセージのテーマにしておられます。

 そして、説明します。「シラ書には、キリストより200年ほど前に生きた賢者のことばが記されています。・・・

 この書物は、冒頭から、人生のさまざまな具体的状況についての忠告を与えており、貧しさもそういった状況の一つです。そして、困難な状況にあるときも、神を信頼しなければならないと、次のように強く訴えています。

 『心を引き締めて、耐え忍べ。災難のときにも、取り乱すな。主に寄りすがり、決して離れるな。そうすれば、豊かな晩年を迎えることになる。身にふりかかる艱難(かんなん)は、すべて甘んじて受け入れよ。たとえ屈辱(くつじょく)を受けても、我慢せよ。・・・病気のときも貧しいときも、主により頼め。』(シラ2.2-7 参照)

 神への祈りと、貧しい人や苦しんでいる人との連帯は、決して切り離すことはできません。神を喜ばせる礼拝を行うためには、あらゆる人に、最も困難にあり、また蔑(ないがし)ろにされている人にも、神の像が刻まれていることに気づかなければなりません。まさに、そうした気づきによってこそ、神からの恵みのたまものがもたらされ、貧しい人への寛大さへと招かれるのであります。ですから、祈りに費やす時間は、困っている隣人をなおざりにする言い訳には決してなり得ません。

 実は、その逆です。貧しい人への奉仕がともなって初めて、わたしたちに恵みが注がれ、祈りが聞き入れられるのであります。・・・

 確かに、貧しい人に目を向けたままでいるのは容易(ようい)ではありませんが、個人的、社会的な生活を正しい方向に向けるには、それが何よりも必要です。大切なのは、多くを語ることではなく、まさに、神の愛に突き動かされて、貧しい人々の生活に具体的に関わることであります。

 毎年、『貧しい人のための世界祈願日』をもって、わたしは教会生活の根底にあるこの現実に立ち帰ります。貧しい人は、日常生活の中で、まずキリストが寄り添っておられることを、わたしたちが受け入れられるよう、今もこれからも、いつもわたしたちと共におられるからです(ヨハネ12.8参照)。

 貧しい境遇に置かれた人との出会いは、わたしたちの心を、必ず揺さぶり、考えさせます。何をしたら彼らの疎外された状態や苦しみを取り除くことができるのか、或いはせめてその状態を和らげることできるだろうか。どうしたら心が飢えている人を助けることができるだろうか。キリスト共同体は、この様な共通の体験に身を置き、人任せにしてはならないことを自覚するよう求められています。

 また、貧しい人を助けるためには、まず、私たち自身が身をもって福音的貧しさを生きることが不可欠です。・・・

 確かに教会は、提案できる総括的な解決策を持ち合わせているわけではありませんが、キリストの恵みによって、自らのあかしと分かち合いの行為を示すことができます。さらに教会は、生きるために必要なものに事欠く人々の願いを世に示す責務があると自覚しています。・・・

 手を差し伸べるとは、わたしたちには人生に意味を与える行為をなす力があることを、だれよりも、援助を訴えている本人に気づかせます。・・・

 手を差し伸べるとは、一つの象徴です。親密さと連帯と愛を、直接表わすしるしにほかなりません。世界全体が苦悩と死、失意と混乱をもたらすウイルスに支配されてきたこの数か月の間(あいだ)、どれほど多くの差し伸べられた手を目(ま)の当(あ)たりにしたことでしょう。最善の治療法をさぐりながら、患者一人ひとりを案じる医者が差し伸べる手。勤務時間を大幅に超過(ちょうか)しても、患者の看護を続ける看護師が差し伸べる手。・・・司祭が心を込めて祝福を授ける按手。・・・

 このパンデミックは突然やって来て、私たちを恐怖に突き落とし、大混乱と深刻な無力感をもたらしました。けれども、貧しい人に差し伸べられる手は、突然だされたものではありません。その手は、実は、必要なときに助けられるようにと、貧しい人に気づけるように如何に準備されてきたかを証(あかし)しています。つまり、突然、あわれみの道具になれるわけではありません。まさに日頃の訓練が必要です。それは、差し伸べられる手を自分がどれだけ必要としているかを自覚することから始まります。・・・

 『何事を成すにも、お前の人生を終わりに心を留めよ。』〈同上7.36参照)。

このことばによって、シラ書は、締めくくられます。」

 以上、教皇フランシスコの長いメッセージを、まとめてみました。

 

出向いて行く教会

 ところで、実は、教皇フランシスコは、すでに6年前に発布なさった使徒的勧告『福音の喜び』によって、どちらかと言えば内輪向きの教会共同体が、「出向いていく教会」になるように、次のように切に訴えておられます。

 「神のことばには、神ご自身が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに示されています。アブラハムは新しい土地へと出ていくようにという神の呼びかけを受け入れました。

 モーセも、『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました。・・・今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』というおことばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示していると言えましょう。皆が、宣教のこの新しい『出発』に招かれています。・・・つまり、自分にとって居心地(いごこち)のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅においやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです。」(同上20項参照)。

 今週もまた、聖霊によって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を告げ知らせることができるように共に祈りましょう。

 

 


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