年間第32主日・A年(2020.11.8)

「目を覚ましていなさい」

 

知恵を思って目を覚ましていれば(知恵の書6.15参照)

 まず、今日の第一朗読ですが、知恵の書の6章からの抜粋であります。

 ちなみに、この知恵の書は、恐らく紀元前一世紀ごろに、エジプトの学問の都市アレクサンドリアで、ギリシャ語を話すユダヤ人によって知恵文学の形式で書かれたと考えられます。

 それは、すでにギリシャ時代の異教徒の文化つまりヘレニズムの唯物主義的異教文化の影響にさらされていた同胞ユダヤ人たちに、慰めと希望、勇気そして将来と来世に対する希望を与えるために編集された知恵文学と言えましょう。

 ところで、聖書で語られる知恵とは、一体何なのでしょうか。

 実は、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1.7参照)と言われているように、神との親密な交わりの中で成熟されるのであります。しかも、神が与えてくださる賜物にほかなりません。(同上2.1-12参照)ですから、新約における知恵は、イエスのことばの中に現れていると言えましょう。つまり、イエスは、イスラエルの知恵の伝統を受け継ぎながら、たとえや諺(ことわざ)などを用いてかつてない神の神秘を伝えているのではないでしょうか。(マルコ4.11-12参照)

 ですから、今日の朗読箇所では次のように知恵の働きを描いております。

「知恵は輝かしく、朽ちることがない。

知恵を愛する人には進んで自分を現し、

捜す人には自分を示す。・・・

知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、

知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。」と。

 

わたしたちはいつまでも主と共にいる(テサロニケ一、4.17b参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロ自身が第二宣教旅行(59-53年)中に創立したテサロニケの教会へしたためた手紙一の4章からの抜粋であります。ちなみに、パウロは、創立後もその共同体を気にかけていので、弟子のテモテを派遣しております。

 そこで、今日の手紙は、テサロニケの共同体から、直接、パウロに兄弟愛とキリストの再臨について質問が送られたようです。ですから手紙の後半(4-5章)でそれに答え、前半(1-3章)では、彼らの信仰について切なる思いをしたためているのではないでしょうか。

 「兄弟たち、すでに眠りについた人たちについては、希望をもたないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。

 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して下さいます。」と。

 おそらく、テサロニケの教会の信者たちは、「すでに眠りについた人たち」が、キリストが再臨なさるときに一体どうなるのか、彼らの復活信仰についてまだ確信が持てずにいたようです。

 ですから、パウロは「神は、イエスを信じて亡くなった方々は、つまり信仰を全うした人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と、断言します。つまり、キリストの再臨(世の終わりすなわち救いが完成するとき、キリストは、天使たちを従え栄光の内に再び来られること)が、「キリストに結ばれて亡くなった方々」が、復活させられる時にほかならないのであります。

 以前、40代で病気のため急死なさった建築士のため故郷の教会で、追悼のミサがささげられました。東京の職場の会長、社長ならびに同僚や部下の方々が、大勢そのミサに参加し、その後、故人を忍ぶお食事会がありました。

 その席上、わたくしは会長の隣でした。そこで、初めてカトリックの追悼ミサに参加なさった彼が、「神父さん。一日でいいから、俺も復活を信じたいです。」と、真剣なまなざしで話されました。

 

目をさまして今日を生きる(マタイ25.13参照)

 それでは、最後に今日の福音を振り返ってみましょう。

 まず、初めに、今日の個所の文脈を調べて見ましょう。律法学者とファリサイ派の人々は「不幸だ」と、大胆に宣言なさったイエスは、神殿の境内を出てから、なんと神殿の崩壊を予告なさいます(同上24.1-2参照)。

 そこで、イエスは、終末(世の終わりの救いの完成)の時期と徴を尋ねる弟子たちに、終末にかんする大切な教えを説かれます。つまり、終末の前に必ず起こる大いなる苦難と天変地異(てんぺんちい)に耐え、人の子を待つようにと諭した後(24.3-31参照)、なんと七つのたとえを用いて、確かに突然到来する終末にそなえて日々を生きるよう励まされます(同上24.32-25.46参照)。

 それでは、今日のたとえつまり「十人のおとめ」について、説明しましょう。

 ちなみに、このたとえは、当時のユダヤ社会の婚礼のしきたりに基づいています。

 つまり、ユダヤにおいて婚宴は通常、夜開かれます。そこで、婚礼の客は、花嫁の家で接待を受けながら、花婿が来るのを一緒に待ちます。

 つまり、花婿が花嫁を迎えに来るのであって、彼が到着するとともし火を明るくともして歓迎します。そして、そこで初めて花婿と花嫁は、客と一緒に祝いの行列によって、今度は花婿の家に向かい、そこで本格的な祝宴が開かれます。ところで、今日のたとえでは、花婿を迎えに出る十人のおとめのうち、なんと五人が愚かで、五人が賢いおとめだというのであります。

 そこで、たしかに十人全員が、ともし火をもっています。けれども、愚かなおとめは、「油の用意をしていなかった」のに対して、賢いおとめはともし火と一緒に「壺に油を入れて持って」いたと言うのであります。

 真夜中になってようやく花婿の到着の知らせが叫ばれます。

 ところが、そこで、ともし火の火が消えかかっているのに、はじめて気づいた愚かなおとめたちは、油を買いにお店まで走る時間がないので、早速、賢いおとめたちに、油を分けてくれるように願います。ところが、賢いおとめたちは、「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい。」けんもほろろに突っぱねます。ここで注意すべきは、賢いおとめたちが、決して意地悪をしたのではありません。なぜなら、この「油」こそ、やすやすと人に分け与えることにできない、人の行く末を決定づける重要なものの象徴だからであります。そこで愚かなおとめたちには、「戸が閉められた。」とうことですが、今まさに決定的な時が迫っているのに、そのための準備を怠るなら取り返しのつかない事態を招いてしまうことを示していると言えましょう。

 ですから、キリスト者の生き方の基本が、いつ主の来臨が実現してもいいように、日々、忠実に「天の父の御心を行う」(同上7.21b参照)ことではないでしょうか。

 

 

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