諸聖人の祭日・A年(2020.11.1)

「天には大きな報いがある」

 

白い衣を身に着け手にナツメヤシの枝(黙示録7:9参照)

 いつものように「ことばの典礼」でいただいた今日のみことばを、少し丁寧に振り返ってみましょう。まず第一朗読ですが、ヨハネ黙示録の7章からの抜粋であります。ちなみに、この書物は、黙示文学に属する、おそらくヨハネ共同体が一世紀末に編集した「預言のことば」(黙示1:3参照)であります。

 その内容は一世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスによって迫害されていたキリスト教徒のための希望と慰めのメッセージにほかなりません。すなわち天地創造から始まった人類の救いは、その完成である新しい天と地の出現をもって成就するのであります。

 ですから、迫害がますます激しくなる最中、アジア州の諸教会の信徒に向けて、すぐにでも実現する救いの完成を告げることによって、勇気づける必要があったのではないでしょうか。

 したがって、今日の箇所7章では、キリスト教徒に対する神のご加護が二つのヴィジョンによって告げられます。

 すなわち1節から8節までのヴィジョンでは太陽の出る方角、つまり東から登場した1人の天使がまず神の僕たちの額に刻印を押します。   

 ついで、9節から17節では、玉座の前と小羊の前に立っている数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身につけ、手にナツメヤシの枝を持ち、「救いは神と小羊に」と大声で叫びます。ちなみに、白い色は、光の色とされ、まさに汚れや罪のない状態を表しています。またナツメヤシの枝は、勝利や賛美を表す象徴となっています。

 このように、黙示録が天上の世界をいとも荘厳に描き、主の再臨の日のヴィジョンを預言することによって、過酷な迫害を体験していたキリスト教徒たちを、最後まで信仰に留まるようにと励ますために、ヨハネ共同体が編集したと言えましょう。

 

御子が現れるとき我々は御子に似た者となる(ヨハネの手紙一3:2参照)

 続いて今日の第二朗読ですが、ヨハネの手紙一の3章の冒頭の抜粋であります。この手紙も、ヨハネ共同体が編集したものと考えられますが、当時、その共同体の中にあった反キリスト的な傾向に惑わされないで、しっかりと最後まで、御子の内に留まり、キリスト信者として清くなる務めを全うするよう、次のように励ますのであります。

「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし御子が現れるとき、御子に似た者となることを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのまま見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」と。ちなみに、教会を根本的に改革し刷新することを目指した第二バチカン公会議は、その教会憲章の第7章で、次のように宣言しております。

「われわれは皆、キリスト・イエスによって教会へ招かれ、その中で神の恵みにより聖性を身に着ける。その教会は、万物が回復される時が来て、人間に密接に結ばれ人間を通して自らの目的に達する全世界が、人類と共に、キリストにおいて完全に建て直されるとき、天上の栄光において初めて完成を見る。」(『教会憲章』48参照)と。

 

平和を実現する人々は幸いである(マタイ5:9参照)

 最後に、今日の福音ですが、マタイによる福音書の5章からの抜粋であります。このマタイ福音書によれば、イエスはその出身地であるガリラヤ地方で、福音を宣べ伝え、人々の病気や患いを癒したので、イエスに大勢の群衆が従ったのであります。そしてこの群衆が、イエスの最初の説教を小高い山の上で聞くことになります。ですから、マタイ福音記者は、イエスの「山上の説教」として5章から7章に渡ってまとめています。従って今日の福音は、その説教集の冒頭の箇所にほかなりません。

「その時、イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、・・・イエスは口を開き、教えられた。

『心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。』」と。

 このように前半で呼びかけられるのは、迫害という試練の最中、神の国の完成を目指してひたすら耐えているキリスト者にほかなりません。

 また3節で言われてる「柔和な人」ですが、ヘブライ語に遡るならば、まさに「迫害に耐え、背中を曲げている姿」となります。また「心の貧しい人々」とは、直訳するならば「霊において貧しい人々」となります。  

 ちなみにギリシャ語の「貧しい人」という言い回しは、物質的貧困を表しますが、精神的・霊的意味合いは表すことができないので、マタイは「霊において貧しい人々」と、説明することによって、旧約聖書で言われている豊かな意味を説明しようとしていると言えましょう。

 さらに後半で言われている「平和を実現する人々」ですが、この地上における真の世界平和の構築のために具体的な行動を起こす人々のことを指しているのではないでしょうか。

 例えば、先日核兵器の開発から使用までを全面禁止する核兵器禁止条例を批准する国が50カ国・地域に達し、来年1月22日に効力を発揮することが、ようやく決まりました。ちなみに、この核兵器廃絶の運動は、例えば、56年前東京・杉並区で主婦が始めた水爆禁止のための署名運動にも遡ります。その運動は、まさに全国に広がり、1955年にはなんと日本の人口のほぼ四分の一にあたる3200万人もの驚異的な数の署名が集まったというのであります。

 さらに2017年12月の核兵器廃絶国際キャンペーンのノーベル賞平和賞授賞式で、被爆者の一人としてサーロー節子さんは、そのスピーチで次のように切々と訴えられました。

「私は広島と長崎の原爆投下から奇跡的な偶然によって生き延びた被爆者の一人として語りたいです。70年以上にわたって、私たち被爆者は、核兵器の完全廃絶に向けて取り組んできました。世界中でこのような恐ろしい兵器の生産や実験による被害者たちと団結してきました。・・・私たちは立ち上がったのです。生き抜いてきた体験を語り始めたのです。核兵器と人類は共存できないのだと。今日、この会場の皆さんに、広島と長崎で命を奪われたすべての人たちの存在を感じてもらいたいです。私たちの頭上に、まわりに、二十数万という大勢の方々の御霊を感じてください。・・・13才の少女だった私は、煙が上がる瓦礫の下で生き埋めになりながら、力の限り、光に向かって前に進みました。そして、生き延びました。今の私たちにとっての光は、核兵器禁止条約です。この会場におられる皆さん、並びに世界中の皆さんに向けて、広島の瓦礫の下で聞いた言葉を繰り返します。

『諦めるな。前に進め。光が見えるだろう。それに向かって這って行け』と。」

 

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