年間第30主日・A年(2020.10.25)

「わたしは必ずその叫びを聞く」

わたしは必ずその叫びを聞く(出エジプト22.22参照)

  因みに、旧約聖書の二番目の書物『出エジプト記』は、イスラエルの民が、エジプトの奴隷の家から脱出する壮大な救いの歴史が語られる書物で、恐らく紀元前10世紀から9世紀にかけて編集されたと考えられます。

 けれども、20章22節から23章33節までは、約束の地における定住生活が始まった紀元前13世紀に編集された掟集になっております。ですから、「契約の書」と命名された社会的弱者に対する配慮を求めるまさに人道的律法の次のような命令となっております。

 「寄留者(きりゅうしゃ)を虐待(ぎゃくたい)したり、抑圧(よくあつ)したりしてはならない。・・・

 いかなる寡婦(かふ)も孤児(こじ)も苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」と。

 実は、この出エジプト記の前半は、解放者モーセの召命についての感動的な場面ですが、そこですでに主なる神が、虐げられ、搾取されているイスラエルの民(エジプト国内では下層民がヘブライ人と呼ばれていた)を、エジプトから救い出してくださる決意を、明らかに知らせてくださいます。

 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、酷使(こくし)する者のゆえに彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしは彼らをエジプト人の手から救い出し、その地から広くて善い、乳(ちち)と蜜(みつ)の流れる土地に、彼らを導き上るために降(くだ)って来た。」(出エジプト3.7-8参照)と。

 ですから、神のこの決意は、今日(こんにち)の世界の状況においても、決して変ることはないのではないでしょうか。

 たとえば、内戦が原因でおびただしい難民が、命がけで国から脱出しなければならない悲惨な現状において、キリスト者が神の解放のみ業に参加するように、教皇フランシスコは、次のように呼び掛けておられます。

 「教会は母です。教会の母のような眼差(まなざ)しは特別のやさしさと親しみを込めて、自分の国を逃れ、避難先で根なしの状態と同化(どうか)の間で揺れている人々に向けられています。・・・キリスト者の共感(きょうかん)、すなわち共に苦しむという共感は、何よりもまず、なぜ彼らが自分の国から逃れなければならなかったのかその事情を正確に知り、そして必要があれば、苦痛と圧迫を訴えることのできない人々の声を代弁(だいべん)することです。・・・ですからキリスト者一人ひとり、またその共同体の全員が現実的にこの問題に向き合わねばなりません。」(2013年評議会総会での講演)と。

 また、信仰があついドイツのメルケル首相は、連帯の必要性を、次のように訴えております。

 「2016年、最初の数か月のうちにエーゲ海だけで約450人が溺死(できし)し、昨年は全部で4500人以上が命を落としたという事実をみても、わたしには受け入れがたい非合法な手段以外の方法で、難民の援助を行わなくてはならないのは明らかです。

 わたしたちは困難な課題に直面していますが、この課題を引き受けないわけにはいきません。・・・

 人と人との結びつきは―それを連帯と呼ぶこともできますが―わたしたちの国ではくりかえし大きな力となって来ました。・・・

 連帯は、異なる世代間の連帯をも意味しています。・・・

 わたしたちは一つの世界に生きています。この世界は決して理論的な形ではなく、実際的な行動を起こすよう要求してきます。わたしたちは難民を生み出す原因と戦わなければなりません・・・」(2017年1月23日ヴュルツブルクにて;2016年4月14日ベルリンにて)

 

隣人を自分のように愛しなさい(レビ記19.18参照)

  次に、今日の福音ですが、福音記者マタイが伝えるイエスと当時のユダヤ社会の指導者たちとの論争の場面であります。

「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試(ため)そうして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法(りっぽう)全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と。

 とにかく、そのときの論争の相手が、いずれも律法の専門家たちだったので、イエスは当然、あくまでも律法の文脈においてお答えになられます。

 つまり、第一の掟は、『申命記』の6章からの引用であります。

 申命記は、40年にわたる荒れ野での試練の旅を終えたモーセが、イスラエルの民に向かって、ヨルダン川の向こう岸に遥か約束の乳と蜜の流れる土地を望みながら、最後の説教を切々と語ったと言う舞台設定であります。

 また、第二の掟は、レビ記の19章18節の引用であります。

ですから、あくまでもユダヤ人同士の同胞(どうほう)愛という枠(わく)のなかでの愛の掟にほかなりません。

 ところが、イエスは、旧約の枠を超越したまさに新しい愛の掟を、ほかの場面では、次のように強調なさっておられます。

 「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。右の頬(ほほ)を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。・・・

 あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなた方(がた)に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方(がた)を迫害する者のために祈りなさい。・・・」(マタイ6.38-44参照)と。

 また、イエスが弟子たちとの最後の晩餐の席上、次のように命じられました。

「わたしは新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって人は皆、あなた方がわたしの弟子であることを、認めるようになる。」(ヨハネ13.34-35参照)と。

 ですから、この新しい愛の掟を実践によってこそ、教皇フランシスコが近年強調なさっておられる「出向いて行く教会」に成長できるのではないでしょうか。そこで、教皇フランシスコは、次のように切切(せつせつ)と訴えられます。

 「今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』ということばは、教会の宣教の常(つね)に新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。・・・つまり、自分にとって居心地(いごこち)のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです。」(『福音のよろこび』20項参照)と。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、イエスの命じる愛の掟の実践に励むことが出来るよう共に祈りましょう。

 

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