聖家族・C年(2021.12.26)

「イエスは知恵が増し 神と人とに愛された」

この子は生涯主にゆだねられた者です(サムエル上1.28参照)

   イスラエルのアブラハムから始まる歴史を振り返りますと、アブラハムの家族を中心に、族長時代が始まり、エジプトにおいて下層民となっていた時代を体験し、モーセによってその奴隷の家から解放されました。そして、40年にわたる荒れ野の旅が終り、乳と蜜の流れる約束の地カナンに定着し、そこで指導者を士師と呼んだ時代が始まります。

 今日の第一朗読は、最後の士師サムエルの誕生にまつわる出来事を語るサムエル記上の1章からの抜粋であります。

 実は、今日に箇所の前で、サムエルの家族の様子が次のように語られています。

「エルカナ(サムエルの父親)は毎年町を出てシロに上り、万軍の主なる神を礼拝し、生贄(いけにえ)をささげていた。・・・或る年、エルカナがその生贄(いけにえ)をささげた日のことである。・・・ハンナ(サムエルの母親)を敵とみるペニナ(エルカナのもう一人の妻)は、主が子どもをお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上(のぼ)るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。・・・さて、シロでの生贄(いけにえ)の食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心(みこころ)を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生(いっしょう)を主におささげし、その子の頭には決してかみそりをあてません。」(同上1.3-11参照)と。

 以上のような状況を踏まえて今日の箇所に移ります。

 ですから、サムエルの母親ハンナは、彼女の誓いどおり乳離れしたサムエルを、早速、祭司のもとに連れて行き、「祭司様、あなたは生きておられます。・・・わたしはこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられたものです。」と。

 すべて子どもは神から授かった宝物にほかなりません。ですから、親は、ハンナのように、当然のことながら「この子を主にゆだねます。」と言って神に捧げるべきではないでしょうか。

 そうしてこそ、少年イエスのように「知恵が増し、背たけも伸び、神と人とに愛される」ように育てられることを、ハンナから学ぶことが出来ます。

 

わたしが父に家にいるのは当たり前です(ルカ2.49b参照)

  次に今日の福音ですが、ルカが伝えるイエスの12歳になったときの神殿での出来事を伝えています。

 まず、ルカはイエスを真(まこと)のイスラエル人であり、その誕生の時から、ユダヤ教の道徳とその儀式と習慣に従った生活の中で育てられたことを確認しています。

 ですから、家庭と神殿と会堂がイエスを育てたと言えましょう。

 したがってイエスの生涯の重要な時期に入ると、彼は、ユダヤ教との連続性に身を置いたと言えましょう。

 たとえば、最初の男の子にとってその重要な期間というのは八日目の割礼であり、さらに神への奉献あるいは捧げる儀式ですが、これはすべて母親の清めの儀式がなされて行われ、6週間目になされました。

 また、バーミツバ(「律法の子」と呼ばれる儀式)は、十二歳になったときで、さらに公に大人として認められるのは三十歳になったときです。

 ですから、ルカは22節から23節で「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献(ささ)げるため、エルサレムに連れていった。それは主の律法に、『初めて生まれた男子は皆、主のために聖別(せいべつ)される』と書いてあるからである。」を、完成させるためと言えましょう。

 したがって、十二歳になったイエスは、今や自らに対して、神との特別な関係を主張しているのです。それは、本当の意味で子どもとしての彼を捧げるということに他なりません。

 ですから、両親に向かってイエスは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と、両親が理解できない宣言をすることができたのではないでしょうか。

 しかも、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」というくだりは、サムエル記上の2章26節「少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人にも喜ばれる者となった。」と、みごとに一致するのではないでしょうか。

 そこで、信者の家庭の子どもと若者たちの信仰教育ですが、イエスを信仰の人に育て上げたのは「家庭と神殿と会堂」であったことを確認しましたが、信仰教育の原点はまず家庭にあることを、モーセの時代に遡って確かめることが出来るのではないでしょうか。モーセの最後の説教集といえる申命記において、次のように強調しています。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、あなたが家に座っているときも、あなたが道を歩いているときも、あなたが寝るときも、あなたが起きているときも、語りきかせなさい。」(申命記6.4-7参照)と。

 つまり、信仰教育の基本であるみ言葉教育は、家庭で親が実践する責任があるということです。ですから、使徒パウロは、信仰伝達の基本原理を、次のように確認しています。

「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣(の)べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。・・・実に信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10.13-17参照)と。

 しかも、このみ言葉教育こそ、信仰の生涯教育の原点に他なりません。

 ですから、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』によって、特に福音宣教のための聖書の学びの必要性を、次のように強調しておられます。

「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聴き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自らを福音化し続けなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対必要です。・・・

 聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。」(同上174-175参照)と。

 

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