年間第31主日・B年(21.10.31)

「力を尽くして神を愛し また隣人を自分のように愛する」

今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留めなさい(申命記6.6参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、申命記6章からの抜粋であります。この書物は、ギリシャ語の七十人訳聖書では、「第二の律法」となっており、律法の「重ねて命じられた書」と言う意味が書名となっていると言えましょう。

 ですから、その内容は、イスラエルの40年に亘る荒れ野での試練の旅のあと、ようやくたどりついた約束の乳と蜜の流れる土地を、ヨルダン川のはるか彼方に眺めながら、モーセが、まさに万感の思いを込めて切々と語った三大説教と最後の勧告にほかなりません。

 しかも、モーセは、その四章からは、シナイ山での律法を授かった歴史を振り返りながら、イスラエルの群衆に向かって二人称単数形「あなた」と複数形「あなた方」とを、交互に繰り返しながら語りかけています。

 ですから、今日の箇所では、次のように情熱を込めて訴えています。

「イスラエルよ、あなたは良く聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。

 (ヘブライ語で)シェマ、イスラエル。聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め〔なさい。〕」と。

 ちなみに、敬虔(けいけん)なユダヤ教徒の成人に達した男子は、毎朝、毎晩、まさに自分の信仰告白として、この掟(おきて)を唱えていたのであります。

 しかも、最後のくだりつまり「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め」ですが、旧約聖書における「神のことばを聞く」というキーワードにほかなりません。

 とにかく、この「神のことばを聞く」とは、まさに信仰体験の原点と言えまましょう。ですから、敬虔なイスラエルは、日ごとの祈りで“聞く”ことを、確認して来ましたし、イエスが、群衆に向かって“よく聴きなさい”(マルコ4.3,9参照)と念を押しておられます。

 とにかく、ヘブライ語の“聞く”は、神のことばに注意深く耳を傾けるだけではなく、それに心を開き(使徒16.14参照)、それを実践し(マタイ7.24-26参照)、それに忠実に従うことまでも含んでいると言えましょう。

 ですから、モーセは、今日(きょう)の箇所に続いて家庭における特に子どもたちの信仰教育の原点を、次のように強調しています。

「子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(同上6.7参照)と。

 今日(こんにち)、ヨーロッパの伝統的なキリスト教国と日本を含めて、信仰が若い世代と子どもたちにほとんど伝達されていないという深刻な問題の主な原因は、このみ言葉教育を、家庭で怠ったからではないでしょうか。

 

心を尽くし知恵を尽くして神を愛し また隣人を自分のように愛する(マルコ121.33参照)

  次に、今日(きょう)の福音ですが、先週に引き続きマルコ福音書の12章からの抜粋であります。

 今日の場面は、イエスが、エルサレムに入城なさってからの神殿での三日目に、一人の律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という問いかけに対して、イエスがお答えなるという対話で構成されております。

  まず、登場人物の「律法学者」ですが、旧約時代には、王宮で書記を務めたり、律法を書き写したり、さらにそれを研究し、教えるようになった学者でした。

 さらにバビロン捕囚時代以降つまり預言がたえてからは、律法すなわち聖書に通じていて、信仰生活についての指導も引き受けていた学者でした。ですから、ユダヤ社会では、特に重んじられていた階級となり、新約時代には「律法学者」と呼ばれるようになった指導者と言えましょう。

 ですから、今日(きょう)の場面では、この律法学者が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と、大上段(だいじょうだん)に構えた質問を、イエスに投げかけます。

 それに対して、イエスは、早速、申命記(6.4-5参照)とレビ記(19.18参照)にある掟を引用なさってお答えになります。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と。

 イエスのこの確信に満ちたお答えに対して、この律法学者は、まさに全面的に賛成しています。

「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない。』とおっしゃったのは、本当です。そして『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献(ささ)げ物や<いけにえ>よりも優れています。」と、念を押します。

 そこで、「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。」と。

  この最後の「神の国から遠くない」というイエスのお言葉ですが、まさに神の国への招きと言えましょう。実は、マルコは、すでに福音書の最初の段階で、イエスがガリラヤでの福音宣教の第一声を、次のように伝えています。

「時は満ち、神の国は近づいた。回心して、福音に身を委ねなさい。」(同上1.15参照)と。

 ちなみに、この「神の国は近づいた」ですが、まだ遠くにあるのが、だんだん近づいて来ると言う意味ではなく、イエスによって開始された神の王的支配が、すでに始まったという意味に他なりません。

 ですから、例えば、マタイは、イエスの次のような宣言を伝えています。

「私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」(マタイ12.28参照)と。

 従って、旧約時代の愛の掟は、イエスによって刷新されたと言えましょう。

 ですから、イエスは弟子たちに新しい愛の掟を、最後の晩餐の席上次のように与えられました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13.34-35参照)と。

 ちなみに、レビ記での隣人愛は、あくまでも同胞愛に限定された愛の掟であり、例えばイエスが命じられる「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5.44参照)と、まさに愛する対象は、無限に広がって行きます。 

   今週もまた、それぞれ派遣される家庭、学校、職場で、日々、愛の実践に励むことが出来るよう、共に祈りましょう。

 

 

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