年間第30主日・B年:世界宣教の日(21.10.24)

「盲人のバルティマイのいやし」

彼らは大いなる会衆になって帰って来る(エレミヤ31.8c参照)

 本日の「世界宣教の日」のために教皇フランシスコは、「教皇メッセージ」を、次のような呼びかけで、初めておられます。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん!

   神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、わたしたちは、見たことや聞いたことを、分かち合わずにはおられません。イエスの弟子たちとのかかわり、すなわち、受肉の神秘、福音、復活によって明らかにされたイエスの人間性によって、神がわたしたち人間をどれほど愛しておられ、わたしたちの喜びや苦しみ、望みや不安をご自分のものとされておられるかが示されています。第二バチカン公会議『現代世界憲章』22項参照)キリストにおける何もかもが、わたしたちの生きる世界とその贖(あがな)いの必要性がキリストにとって他人事ではないことを思い起こさせ、また、この宣教活動に積極的に参加するよう呼び掛けています。・・・」と。

 それでは、いつものように、今日の聖書朗読箇所を、順にふり返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、エレミヤ書の31章からの抜粋であります。この預言書は、紀元前627年から585年にかけて南のユダ王国で活躍した預言者エレミヤが編集したと考えられます。

 しかも、今日(きょう)の箇所は、なんとバビロンに強制移住させられるユダ王国の王を初め主だった人々が、必ず故国に帰ることができるという慰めと希望の次のような預言にほかなりません。

 「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。・・・

 声を響かせ、賛美せよ、そして言え。

 『主よ、あなたの民をお救いください

 イスラエルの残りの者を。」

 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し

 地の果てから呼び集める。

 その中には目の見えない人も、歩けない人も

 身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。

 彼らは泣きながら帰ってくる。・・・

 わたしは彼らを慰めながら導き

 流れに沿って行かせる。

 彼らはまっすぐな道を行き、躓(つまず)くことはない。」と。

 ちなみに、8節で言われている「イスラエルの残りの者」ですが、この「残りの者」とは、古代の戦争がなんと絶滅戦争であったことから創られた言葉で、その戦争で生き残った人たちこそが、イスラエル民族再生への期待をつなぐ種(たね)となるという意味に他なりません。

 

あなたこそ永遠にメルキゼデクと同じような祭司である(ヘブライ5.6参照)

  次に、第二朗読ですが、使徒パウロの弟子が1世紀末に編集し、エルサレムを中心とするパレスチナのユダヤ人キリスト者の共同体のためにしたためた手紙5章からの抜粋であります。

 この手紙ですが、イエスを神の子、新しい契約の仲介者、大祭司と呼んでいます。特に、旧約時代の人間の大祭司と神の子イエスとを比較し、大祭司キリストがいかにすぐれているかを強調しています。

 ちなみに、旧約聖書によれば、モーセの兄アロンの系図につながる者だけが祭司職を受けることが出来、しかも大祭司だけが、神殿の神が臨在する至聖所(しせいじょ)に入ることが出来たのであります。ですから、この大祭司は、年に一度、贖罪(しょくざい)の日に、民の罪の赦しを受けるために動物の血を携えて至聖所に入るのであります。

 しかも、「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることが出来るのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖(あがな)いのために供え物をささげなければなりません。」と。

 このように、人間の大祭司は弱い人を「思いやる」ことができますが、なんと大祭司イエスは、人間と「ともに苦しむ」方に他なりません。

 なぜなら、「彼は御子(おんこ)であるのに、数々の苦しみによって従順をまなばれました。そして、完全な者とされたので、この方に従うすべての人々の永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクの系統による大祭司と呼ばれたのです。」(同上5.8-10参照)と。

 

盲人バルティマイはなお道を進まれるイエスに従った(マルコ10.52c参照)

 最後に今日の福音ですが、マルコによる福音書の10章からの抜粋であります。ここで、文脈を見ますと、弟子であることについて語られた8章から10章とエルサレムにおける宗教的権力者とのイエスの対決に関する段落11章から13章との橋渡しになっています。

 しかも、今日(きょう)の箇所の最後のくだり「なお道を進まれるイエスに従った。」は、イエスの歩まれる道についての十二人に教える部分全体に対してまさにふさわしい結論と言えましょう。しかも、イエスがこの盲人に対して「何をしてほしいのか」という問いかけは、すでに、同じようにゼベダイの子ヤコブとヨハネとに向かって「わたしに何をしてほしいのか」(同上10.36参照)と言う同じ問いかけこそが、両方の段落を見事に結びつけています。

 ですから、盲人バルティマイは、「『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」と、つまり、バルティマイは、十二使徒と同じようにエルサレムで最期を遂げるイエスに従う弟子になったと言えましょう。

 ちなみに、今からちょうど56年前の第二バチカン公会議は、キリスト者全員が使徒職に参加しなければならないことを、次のように強調しています。

 「キリスト信者としての召命は、その本性上、使徒職への召命でもある。・・・教会には種々ことなった役務(えきむ)があるが、その使命は一つである。使徒とその後継者は、キリストから、その名とその権能によって教え、聖化し、統治(とうち)する任務が委ねられた。一方、信徒は、同じようにキリストの祭司職、預言職、王職に参加する者とされ、神の民全体の使命の中で自分なりの役割を教会及び世において果たしている。」『信徒使徒職に関する教令』2項参照)と。

 さらに、教皇パウロ6世は、その使徒的勧告『福音宣教』において、次のように宣言しています。「信徒は特別な召し出しによって、社会の只中で生活し、この世の種々の職業に従事しているのですから、彼らの福音宣教は特別なかたちをとらなければなりません。・・それは隠れてはいるが既に存在していて、この世の出来事の中で働いているキリスト教的ならびに福音的な可能性を効果あるものとすることです。」(同上70項参照)と。

 

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