年間第32主日・B年(21.11.7)

「この貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」

やもめは行ってエリヤの言葉どおりにした(列王記上17.15参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、列王記上17章からの抜粋であります。

 この列王記は、ダビデ王の晩年における宮廷内の争いに始まり、ソロモン王の即位と繁栄、彼の死後の南と北の王国分裂、さらに北王国イスラエルの滅亡(前722年)に至るまでの両国の王たちについて語るまさに壮大な歴史書と言えましょう。

 しかも、今日の朗読箇所は、紀元前874年に即位した北王国イスラエルのアハブ王ですが、道徳的に軟弱であり、妃のフェニキア人イゼベルが、自分の故郷から異教の神バアルとアシュラを崇拝する者たちを、なんと何百人も連れて来たことに反対できなかったのであります。

 そこで、預言者エリヤは、イスラエルの伝統的な宗教を守るために、バアル崇拝者たちと戦わなければなりませんでした。

 その戦いの一環として、今日の箇所の17章の最初の段落で、エリヤは、次のような恐ろしい預言を投げかけます。

「わたしが仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年間の間、露(つゆ)も降りず、雨も降らないであろう。」同上17.1b-1c参照)と。

 このように、エリヤは、古代社会における最大級の災害である数年間の干ばつを預言したというのです。

 それから、「また、神の言葉がエリヤに臨んだ。立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」同上17.8-9参照)と。

 そして今日の箇所に続きます。とにかく、エリヤに声を掛けられたのは、なんとよりによって極貧(ごくひん)を生きている貧しいやもめです。

 しかも、エリヤは大胆にも、彼女に願います。

「『パンも一切れ、手に持ってきてください。』と言った。彼女は答えた。『あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺(つぼ)の中に一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。

 わたしは二本の薪(たきぎ)を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。』と。

 ところが、エリヤは、さらに無理な注文を投げかけます。

「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。

 その後(あと)あなたとあなたの息子のために作りなさい。

 なぜなら、イスラエルの神、主はこう言われる。

 主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで

 壺(つぼ)の粉は尽きることなく

 瓶(かめ)の油はなくならない。』」と。

 このやもめは、エリヤの預言を信じたので、「エリヤの言葉どおりにした。」のであります。

 また、「御言葉(みことば)の通り、壺の粉はつきることなく、瓶の油もなくならなかった。」と言うのです。
 この奇跡こそ、預言者エリヤが、偶像崇拝に堕落した王の権力に対決するとき、預言者を受け入れる人々こそ権力から最も離れた人々であり、神が必ず顧(かえり)みられるのもそのような人々にほかならないことを、見事に物語っているのではないでしょうか。

 

このような者たちは人一倍厳しい裁きを受ける(マルコ12.43参照)

 次に、今日の福音ですが、前半においては、「律法学者たちに気をつけなさい。」という警告によって教会共同体にも厳しい反省を促しているのではないでしょうか。

「彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」と、いとも厳しく律法学者たちについて警告なさっておられます。

 まず、第一に、律法学者たちが、当時のユダヤ社会において、宗教的服装や、名誉、また、宗教的儀式における上席(じょうせき)や、社会的行事での上座(かみざ)などを好むまさに偽善的特権階級的なふるまいを戒めておられます。

 さらに、彼らが敬虔さを隠れ蓑(みの)として、強欲をも抱(いだ)いていることを見抜かれておられます。

 さらに、社会的に弱者である人たちから、搾取(さくしゅ)するなどをしていることをも、指摘なさっておられます。

 ですから、これらの警告を、そのまま私たちの共同体に当てはめることができないでしょうか。

 私自身、司祭として深く反省させられています。

 

この貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた(マルコ12.43参照)

 最後に、今日の福音の後半を振り返ってみましょう。

 すでに、第一朗読で、貧しいやもめが登場していますが、マルコは、神殿の賽銭箱に、大勢の金持ちたちが、有り余った多額の献金を入れているのと、極めて対照的に「生活費の全部を入れた貧しいやもめ」についての、イエスの評価を伝えております。

 ちなみに、使徒パウロは、コリントの教会への手紙二で、次のようなくだりを伝えています。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(二コリント8.9参照)と、まさに十字架上でご自分のすべてを献げられたイエスの貧しさと、「生活費の全部を入れた貧しいやもめ」とを、結びつけることができるのではないでしょか。

 つまり、エルサレムへ最期の死を覚悟して入城なさったイエスにとって、目の前で、貧しい中から、生活に必要な分までも、献げているやもめに、十字架上でご自分のすべてを献げる姿を重ねられたのではないでしょうか。

 また、使徒パウロは、キリスト者の新しい生き方の基本を、次のように教えてくれます。

「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる、生きた<いけにえ>として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心(みこころ)であるか、なにが善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12.1-2参照)と。

 

 

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