年間第29主日・B年(21.10.17)

人の子は仕えられるためではなく 仕えるために来た

多くの人が正しいものとされるために  彼らの罪を自ら負った(イザヤ53.11)

   今日の第一朗読ですが、イザヤ書53章からの抜粋であります。ちなみに近年、66章あるイザヤ書を、その編集者と時代によって便宜上第一イザヤ(1-39章)、第二イザヤ(40-55章)、第三イザヤ(56-66章)とに分けています。

 ですから、今日の朗読箇所は、第二イザヤの53章となり、恐らくイザヤ預言者の弟子が、紀元前539年、つまりバビロン捕囚解放前後に編集したと考えられます。

 しかもそのメッセージは、第二イザヤの希望と解放の預言と言えましょう。

 そして、この第二イザヤには、特別な使命を担(にな)った人物を歌った主の僕(しもべ)の歌が、四つ挿入されています。この主の僕は、神の民イスラエルに、救いと解放とを、自らの苦難と死とによってもたらす使命を担っています。

 ですから、今日の箇所では、次のように歌われます。

「病(やまい)に苦しむこの人を打ち砕こうと、主は望まれ

 彼は自らを償(つぐな)いの献げ物とした。

 彼は、子孫が末永く続くのを見る。

 主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。

 彼は自らの苦しみの実りを見

 それを知って満足する。

 わたしの僕(しもべ)は、多くの人が正しい者とされるために

 彼らの罪を自ら負った。」と。

 

偉大な大祭司神の子イエスが与えられている(ヘブライ4.14参照)

  次に、第二朗読ですが、ヘブライ人への手紙4章からの抜粋であります。実は、この手紙は、おそらく使徒パウロの弟子の一人が、「書簡」という形式よりは、むしろ説教のスタイルで編集したのではないでしょうか。

 ちなみに、この手紙の内容ですが、「(1)神の子としてのイエスは、すべての天使と古い契約のモーセをはるかに超える者である。

(2)イエスは永遠の大祭司(だいさいし)であり、特に人間に対して思いやりがあり、「罪を犯さなかった以外は、すべてにおいて、わたしたちと同じように試みに遭われた。(同上4.15参照)

(3)イエスがささげた犠牲(いけにえ)は永遠であり、しかもすべての人々のためにただ一度ささげられた。そして、この犠牲(いけにえ)をささげた後、大祭司(だいさいし)イエスは天の聖所に入られたのである。」と。

 ここで、今日に箇所ですが、次のように呼びかけています。

「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公(おおやけ)に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。

 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方(かた)ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭(あ)われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜(じぎ)にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」と。

 

皆に仕える者になり すべての人の僕になりなさい(マルコ10.34b-44参照)

  最後に今日の福音ですが、マルコによる福音の10章からの抜粋であります。場面は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエスに特別にお願いする場面でありまが、10章の文脈は、まず、一切を捨てる者の幸福(28-31節)、そしてイエスの三度目の受難と復活の予告(32-34節)に続く段落にほかなりません。

 しかも、この予告の前のイエスと弟子たちの姿を、次のように描いています。

「一行はエルサレムへ上って行く途中、イエスはその先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」(同上10.22ab参照)と。

 まさに、エルサレムで遂げられるご自分の最期を覚悟しながら、先頭に立って突き進まれるイエスの迫力に、弟子たちは圧倒されて、イエスから離れたのではないでしょうか。

 そこで、「イエスは、再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後(のち)に復活する。」(同上10.32b-43参照)と。

 そこで、二人の弟子が登場する今日の場面に入ります。

「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」と、イエスのなさった受難と復活の予告の直後の願いとしてはまさに不適当ではないでしょうか。

 ところが、イエスは、彼らを叱るのではなく、優しく説明してくださいます。

「『あなたがたは、何を願っているのか分かっていない。このわたしが飲む杯(さかずき)を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』彼らが、『できます』というと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯(さかずき)を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。』」と。

 ここで言われた「杯(さかずき)」とは、イエスが、ゲッセマネで、「地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(さかずき)をわたしから取りのけてください。』(同上14.35参照)を連想させます。 また、「わたしが受ける洗礼」とは、イエスに宣教への権限を与える洗礼(同上1.8-11参照)に関連していると言えましょう。

 続いてイエスは、弟子たちの共同体と世間の共同体の根本的な違いを、次のように強調なさいます。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と。

 そして、まさにイエスご自分の生涯を次のように総括なさいます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と。

 今週もまた派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、イエスにならって相応しい奉仕が出来るように共に祈りましょう。

 

 

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