年間第28主日・B年(21.10.10)

「永遠の命を受け継ぐには  何をすればよいでしょうか」

知恵の手の中には図り難い富がある(知恵の書7.11参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、智恵文学に属する知恵の書の7章からの抜粋であります。

 ところで、聖書で言われている知恵とは、一体(いったい)何でしょうか。

 まず、聖書の民イスラエルにとって知恵とは、「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111.10参照)と説いて、神への信仰と従順を知恵の中心とし、しかもその知恵は神が与える賜物(たまもの)として受け止めています。(箴言2.1-12参照)

 ちなみに、マタイ福音書で、イエスが律法学者とファリサイ派の人々に向かって、「この(南の国の)女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たのである。ここに、ソロモンにまさる者がある。」(マタイ12.42bc参照)と、断言なさったように、王制になってからの三代目の王ソロモンには、豊かな知恵を授かっていると評判だったので、実はこの知恵の書のギリシャ語写本では、タイトルが「ソロモンの知恵」となっています。

 ですから、今日の箇所の丁度前になる17章の1節から6節までは、「ソロモンの知恵は生まれつきのものではない」と、次のように強調しています。

「わたしも他の人と同じ空気を吸い

 同じ苦しみの地に生まれ、

 最初に皆と同じ産声(うぶごえ)をあげ、

 産着(うぶぎ)と心遣いに包まれて育った。

 王の誕生といえども異なるものではない。

 だれにとっても人生の始まりは同じであり、

 終わりもまた等しい。」(同上7.3-6参照)と。

 そして、今日に箇所に続きます。

「わたしは祈った。すると悟りが与えられ、

 願うと、知恵の霊が訪れた。

 わたしは知恵を王笏(おうしゃく)や王座よりも尊び、

 知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。

 どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。

 ・・・

 知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。

 知恵の手の中には量り難い富がある。」と。

 

永遠の命を受け継ぐには何をすればよいのでしょう(マルコ10.17参照)

    次に今日の福音ですが、マルコによる福音の10章からの抜粋であります。

 ちなみに、マルコ福音の読み方ですが、イエスと弟子たち、そしてイエスと群衆という対人関係を軸にして読んで行く方法があります。

 ですから、今日の初めの段落は、イエスと弟子たちとの関係が軸になって、人の子の道、すなわちペトロの信仰告白から受難の予告とその接近という段階の、二回目の受難の予告と、次にイエスと群衆との関係を軸に、キリスト者の生き方についての段落と言えましょう。

 そこで、今日の次のような場面が始まります。

「そのとき、イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善(よ)い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、わたしを〔善い〕と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。』」と。

 そこで、一人の人物が群衆から離れて、自分の生き方の本質に関する質問をするために、しかもひざまずいて、イエスに対する尊敬と絶大なる信頼をこめて「善い先生」と呼びかけます。ところが、イエスは、即座に「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と、厳しく反論なさいます。

 そして、「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか」という質問には、お答えにならず、いきなり、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証(ぎしょう)するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と、断言なさいます。

 ここで、まず、確認すべきは、「永遠の命」とは、何かという極めて根本的な問いかけです。

 実は、福音書で、いちばん多く永遠の命について語っているのは、福音記者ヨハネですが、例えば、ニコデモとの対話で、イエスが次のように語る場面があります。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、

 人の子も上げられねばならない。

 それは、信じる者がみな、

 人の子によって永遠の命を得るためである。

 実に、神は独り子をお与えになるほど、

 この世を愛された。

 独り子を信じる者が一人も滅びることなく、

 永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3.14-16参照)と。

 そして、ヨハネにとって、永遠のいのちは、イエスの復活のいのちによって完成されることを、次のように強調しています。

「わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、

 わたしに与えてくださったすべてのものを、

 わたしが一人も失うことなく、

 終わりの日に、復活させることである。実に、わたしの父のみ旨とは、

 子を見て信じる人がみな、永遠の命を持ち、

 わたしがその人を終わりの日に復活させることである。」(同上6.39-40参照)と。

 以前、四十代半ばで、働き働き盛りの一級建築士が、病気で急死なさいました。

 そこで、郷里の教会で、追悼ミサをささげることになり、彼が生前働いていた建築会社の、会長、社長、また同僚や部下の方々が大勢東京から、彼の郷里での追悼ミサに参加してくれました。

 ミサ後、偲ぶ会の席で、会長さんのとなりの席のわたくしに、彼が、突然、「神父さん、一日でいいから、俺も復活を信じたいです。」という彼の信仰告白を聞くことができました。

 とにかく、ペトロがわたしたちを代表して、イエスにたずねてくれます。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」

 そこで、イエスは答えてくださいます。「アーメン、アーメン、私は言う。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑も百倍受け、後(のち)の世では永遠の命を受ける。」と。

 日々、イエスのこのお言葉を信じ、その日その日の自分のすべてを生贄(いけにえ)として主と共に御父にささげることが出来るよう、共に祈りましょう。

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com