年間第27主日・B年(21.10.3)

「神が結び合わせてくださったものを  人は離してはならない」

人が独りでいるのは良くない(創世記2.18参照)

   いつものように今日の聖書朗読箇所を、順にふり返ってみましょう。

 まず、第一朗読は、創世記2章からの抜粋ですが、恐らく紀元前10世紀頃に編纂された資料を基にして編集者が、神の似姿(同上1.27参照)として創造された人(アダム)が、「人がひとりでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と、創造主なる神の切なる願いを強調していると言えましょう。

 つまり、人間には、本来的に共同体が、無くてはならないのであります。

 そこで、物語は続きます。まず試しに「野のあらゆる獣(けもの)、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。」と言うのであります。ところが、アダムは「自分に合う助ける者は見つけることができなかった。」のです。

 そこで、早速、まさに二回目の人間創造を、今度は、「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡(あと)を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」と、まさにパートナー(良き伴侶)として、女を創造されたのです。

   つまり、お互い平等に応答し合えるパートナーとして、男性にとっての女性であり、しかも、「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」と、ちなみに「あばら骨」は、男性と女性の一体性を強調しているのではないでしょうか。

   とにかく、女がアダムのところに、連れて来られると、アダムは喜びのあまり、次のように「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これこそ、イシャ―(女)と呼ぼう、まさに、イシュ(男)からとられたのだから。」と、さすがの語路合わせのユーモアをもって二人の親密な共同体的関係、つまり一体性を強調します。続いて、「こういうわけで、男は父母から離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と、強調します。ここで言われている「一体となる」は、直訳すると「一つの肉となる」となります。

   けれども、「肉」とは、人間存在全体を表しているので、男と女とが、まさに、一人の人間存在を、つまり命を共有していることにほかなりません。

 

神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない(マルコ10.9参照)

    続いて、今日の福音ですが、福音記者マルコが福音書という文学形式で、西暦65年から70年にかけて編集した福音の10章からの抜粋であります。

 場面は、群衆の中からファリサイ派の人々が、イエスに近づき結婚についての難題を持ちかけたところです。

 彼らは、短刀直入に、「夫が妻を離縁することは、律法に適(かな)っているでしょうか」と、問いかけます。

 それに対して、イエスは、相手が律法の専門家であることを尊重して、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と、問い返されます。

 そこで、彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と、自信を持って答えます。

 ところが、イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、一体となる。だから、二人は別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と。 

 このように、イエスは、創世記2章24節を引用して、まさに確信に触れるお答えを突きつけます。

 ちなみに、カトリック教会の結婚式で、新郎新婦の結婚の誓約を取り交わしたあと、司式司祭は、二人の誓約を、次のように確認します。

「わたしは、お二人の結婚が成立したことを宣言いたします。

 お二人が今、わたしたち一同の前でかわされた誓約を神が固めてくださり、祝福で満たしてくださいますように。

 神が結ばれたものを人が分けることはできません。」(カトリック儀式書 結婚式 75項参照)

 

子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない(マルコ10.15参照)

 次に、13節からは、神の国と子どもたちについての場面が始まります。

 実は、すでに9章36節から37節で、「一人の子どもの手を取って弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣(つか)わしになった方を受け入れるのである。」と、まさに神の国におけるイエスと幼子、そしてイエスと御父との密接なつながりを強調なさっておられるので、10章15節で、「アーメン、アーメンわたしは言う。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と、断言なさます。

 ではここで、神の国について説明します。実は、すでに旧約聖書において、神の王国または神の王支配を表す次のような詩編の賛美の歌があります。

「彼らは、あなたの国の栄光を語り、力ある御業(みわざ)を告げる、力ある御業と彼の王位の栄誉を人の子に知らせるために。」(詩編145.11-12参照)と。

 さらに、新約聖書では、使徒パウロのコロサイの信徒への手紙で、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子(おんこ)の国に移してくださいました。」(同上1.13参照)と、強調しています。また、マルコによる福音書では、イエスは、神の国の完成について、次のように宣言なさいます。

「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」(同上14.25参照)と。

 以上のように、神の国は新約聖書では、神の王の支配を示す大切なキイワードになっております。ですから、マタイは、神の国における価値観について、次のように強調しています。「アーメン、アーメンわたしは言う。天の国で最も小さな者が、洗礼者ヨハネよりも偉大である。」(同上11.11参照)と。

 ちなみに、マタイは、神の国について直接説明するのではなく、次のようにたとえで語ります。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(同上13.44-46参照)
と。

 ですから、わたしたちは、日々、「み国がきますように」と、根気よく祈り続けるのです。

 

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