年間第26主日・B年(21.9.26)

「主の民すべてが預言者になればよい」

主が霊を授けて 主の民すべてが預言者になればよい(民数記11.29c参照)

   本日は、「世界難民移住移動者の日」に当たり、「聖書と典礼」の2頁には、カッコして(献金)と表示されていますが、献金もさることながら、この日が定められた意義を再確認し、まさに今日の世界の緊急課題として、世界中の善意の人々と一致団結して難民を生み出す原因と戦う(メルケル独首相)決意を新たにする日にすべきではないでしょうか。

  そのため、長崎教区の信徒川田邦弘さんが、現場での体験に根ざした貴重な記録を、「聖書と典礼」の7頁に掲載しておりますので、是非お読みください。

 それでは、今日の聖書朗読箇所を、順に振り返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、民数記11章からの抜粋であります。この書物は、紀元前10世紀から9世紀にかけて、イスラエルの民が、モーセの指導の下、エジプトの奴隷の家から脱出し、海を渡り、シナイからモアブの平原まで、38年の永きにわたり、苦難に満ちた試練の旅で体験した出来事の集大成と言えましょう。

 ですから、11章の初めに、道中、民が体験している様々な苦しみに耐えかねて、次のように不満を爆発させています。

「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った。主はそれを聞いて憤(いきどお)られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営を端から焼き尽くそうとした。民はモーセに助けを求めて叫びを上げた。モーセが主に祈ると、火は鎮まった。」(同上11.1-2参照)と。

  次いで、「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老たちのうちから、あなたが、民の長老およびその役人として認めうる者を七十人集め、臨在の幕屋に連れて来てあなたの傍らに立たせなさい。・・・そして、あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。』」(同上11.16-17b参照)と。

 そして、今日の場面に移りますが、まさに二度目の聖霊の授与に他なりませんが、今度は「霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。」と言うのです。

 ところが、長老の中に加えられていたエルダトとメダドが、幕屋には出かけていなかったのですが、なんとこの二人は彼らの宿営ですでに預言状態になっていたと言うのです。

 そこで、早速、「若いころからモーセの従者(じゅうしゃ)であったヌンの子ヨシュアは、『わが主モーセよ、やめさせてください』と言った。モーセは彼に言った。『あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。』」と。

 このモーセの切なる願いが、なんと今日(こんにち)、確かにかなえられたことが、第二バチカン公会議の『教会憲章』で、次のように宣言されています。

「生活のあかしとことばの力とをもって、父の国を告げ知らせた偉大な預言者キリストは、栄光を完全に表す時が来るまで、自分の名と権能によって教える聖職位階だけでなく、また信徒を通して、自分の預言職を果たす。・・・信徒が、忍耐をもって将来の栄光を待ちながら(ローマ8.25参照)、彼らは約束の子としてふるまう。」(同上35項参照)

 

労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が 叫び声をあげている(使徒ヤコブ5.4b参照)

 次に、第二朗読ですが、使徒ヤコブの手紙5章からの抜粋であります。この手紙ですが、イエスの兄弟ヤコブの名前を借りた無名の作者が、全キリスト者に宛てた説教集と言えましょう。

 ですから、今日の箇所で、次のように力説しています。

「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」と。

 ちなみに、教皇フランシスコは、今日(こんにち)、地球規模で支配している「排他的な経済システム」について、次のような厳しい警告をなさっておられます。

「『殺してはならない。』という掟(おきて)が人間の生命の価値を保障するための明確な制限を設けるように、今日(こんにち)においては、『排他性と格差のある経済を拒否せよ』とも言わなければなりません。この経済は人を殺します。路上生活に追い込まれた老人が凍死してもニュースにはならず、株式市場で二ポイントの下落があれば大きく報道されることなど、あってはならないのです。これが排他性なのです。」(『福音の喜び』53項参照)と。

 

わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は 海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい(マルコ9.42参照)

   最後に今日の福音ですが、マルコ福音書の9章からの抜粋であります。

 ちなみに、今日の段落の文脈を確認しますと、まず、8章の34節からは、イエスの弟子になる者の基本的な心構えを強調しており、9章に入ってからは、まず、イエスの御変容の出来事があり、また、悪霊をしかりつけるという奇跡があり、そしてイエスは、受難と復活の二回目の予告を弟子たちにだけ告げられます。ところが、弟子たちは、イエスのお言葉の意味を理解できなかったのであります。

  次に、十二人に、「『第一の者になろうと望む者は、いちばん後の者となり、また皆に仕える者とならなければならない』。そして、イエスは一人の幼子を弟子たちの真ん中に立たせ、その子を抱き寄せて仰せになった。『わたしの名の故に、このような幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。またわたしを受け入れる者は、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのである』」(同上9.35-37参照)

 そして、今日の箇所に続くのですが、特に後半のテーマである共同体におけるつまずきに関しての極めて厳しいお言葉を味わってみましょう。

 聖書で言われる「つまずき」ですが、言葉の語源は、仕掛けられた罠と言う意味です。ですから、道徳・信仰上他人を妨げることを意味します。

 そこで、今日(きょう)の文脈では、特にイエスと同一視される「小さな者」つまり弱い立場にいる人を、「つまずかせる者は、大きな石臼(いしうす)を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」と、断言なさいます。それは、弟子たち自身からも生じる危険性があるので、弟子たちには、「もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐりだして捨ててしまいなさい。」(マタイ5.20参照)と、厳しく忠告なさいます。

 とにかく、今日(こんにち)の世界が、まさに地球規模で、小さき者、弱き者を虐げている深刻な問題に、どのように取り組んだらよいのか、具体的な行動パターンを確認すべきではないでしょうか。イエスは、栄光に包まれて再び来られ、全人類を、次のように裁かれます。

「その時、王は自分の右側の者に言う。『わたしの父に祝福された者たち、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい。あなた方は、わたしが飢えている時に食べさせ、渇いている時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に服を着せ、病気の時に見舞い、牢獄にいた時に訪ねてくれたからである。』」(同上25.31-36参照)

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com