年間第25主日・B年(21.9.19)

「すべての人の仕える者になりなさい」

本当に彼が神の子なら助けてもらえるはずだ(知恵2.18a参照)

   早速、今日の朗読箇所を、それぞれ順に振り返ってみましょう。

 まず、第一朗読ですが、知恵文学に属する知恵の書の2章からの抜粋であります。この書物は、紀元前1世紀に、北アフリカの学問の都(みやこ)アレクサンドリアに住んでいたギリシャ語に堪能なユダヤ人によって、当時地中海沿岸を風靡(ふうび)していた唯物主義的異教文化すなわちヘレニズム文化の誘惑と危険にさらされているユダヤ人たちを慰め、勇気と来世に対する希望を与えるために編集されたと考えられます。

 ですから、今日の箇所で、キリストの受難を彷彿とさせるようなメシア預言的なくだりを語ります。

「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。

 我々のすることに反対し、

 律法に背くといって我々をとがめ

 教訓に反するといって非難するのだから。

 彼の言葉が真実かどうか見てやろう。

 生涯の終わりに何が起こるのかを確かめよう。

 本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。」と。

 この最後の「本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。」というくだりは、マタイの受難劇の次の場面と見事に繋がるのではないでしょうか。

「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱(ぶじょく)して言った。他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。」(マタイ27.41-43参照)と。

 

義の実(み)は平和を実現する人たちによって 平和のうちに蒔かれる(使徒ヤコブ3.18参照)

 次に、第二朗読ですが、先週に引き続き、使徒ヤコブの手紙からの抜粋であります。

 イエスの兄弟ヤコブの名を使って無名の編集者は、全キリスト教徒宛てに次のような勧告をしたためています。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず人を殺します。熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」(ヤコブ4.1-2)と。

 実は、昨年の10月3日に、教皇フランシスコは、世界平和の実現を願って、二つ目の回勅『Fratelli tutti: 兄弟の皆さん』を発布なさいました。

 そこで、「平和の構築と手仕事」というタイトルで次のように強調しておられます。

「平和への道とは社会の画一化(かくいつか)のことではなく、わたしたちを共に働けるようにするものです。すべての人に益となる共通の目標を掲げて、多くの人を団結させます。・・・

 南アフリカの司教たちが教えたように、真(まこと)の和解は、『支配欲よりも他者への奉仕を基盤とする、新たな社会を形成することで』実現を先取りさせます。『それぞれが身勝手に最大限の富を求める争奪戦ではなく、持っているものを他者と共有することを基盤とする社会です。家族であれ、国であれ、民族であれ、文化であれ、どんな小集団よりも、人類として共にいることの価値が、間違いなく大切にされる社会です。』韓国の司教団が指摘したのは真(まこと)の平和は、『正義のための対話によって努力し、和解と相互の発展を追い求めるときにのみ実現される』ということです。」(同上228-229項参照)と。

 そして、イエスご自身のつぎのような具体的な勧告に皆が従うことによって、平和は身近なところから実現していくのではないでしょうか。

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱(ぶじょく)する者のために祈りなさい。あなたの頬(ほお)を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。・・・求める者には、だれにでも与えなさい。・・・人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6.27b-36参照)と。

 イエスのお言葉を忠実に実践するならば、次のような報いをいただけるのではないでしょうか。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5.9参照)と。

 

いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(マルコ9.35b参照)

 最後に今日の福音ですが、マルコ福音書の9章からの抜粋であります。マルコの文脈では、イエスの弟子として求められる基本的な心構えについての教えの段落と言えましょう。マルコは、まず、そのときの地理的状況を確認します。つまり、イエスがそこからご自分に従ってくるようにと人々を招く場所ガリラヤは、イエスの再臨を待つためにそこに帰ることを弟子たちに命じる場所、そして弟子たちを導いて通る場所の象徴と言えましょう。

 そこで、「しかし、イエスは人に気づかれるのを好まなかった。それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」と、念を押しています。

 つまり、弟子たちだけを、人々から切り離して特別に指導する必要があったのです。しかも、イエスの二回目の受難と復活の予告を、まだ悟りきっていない弟子たちです。

 この予告で言われている「渡される」ですが、ユダヤ教文学では、一般に預言者の運命を描くのに用いられますが、ここでは、まさにイエスの受難と死に関して用いられています。とにかく、初期のキリスト者たちは、「渡される」という言い回しを、イエスの死の神的必然性の表現として理解しただけでなく、福音に仕えることで避けることのできない彼ら自身の経験としても理解していたと言えましょう。

 また、ここで言われている、「わたしの名のために」ですが、弟子たちが受け入れるのは、イエスご自身と言う意味ではないでしょうか。なぜなら、イエスの弟子の中で最も小さな者がイエスを表しているからにほかなりません。つまり、キリスト者はイエスの現存を表すしるしであり、しかもイエスは、キリスト者の中の最も小さな者と同一視されるのです。

 最後に、第二次世界大戦中、ドイツで処刑された神学者ボンヘッファーのコメントを紹介します。

「キリスト者の交わりにおいては、<各個人がひとつの鎖(くさり)の欠けてはならない環であるかどうか>ということにすべてがかかっている。一番小さな環(わ)がしっかりと鎖全体に組み合わさっている時に、鎖は切れないのである。・・・キリスト者の交わりに属する者は、弱い者が強い者を必要とするだけでなく、強い者も弱い者なしには存在しえないということを知らなければならない。弱い者を排除することは、その交わりに死をもたらすことを意味する。」(『主のよき力に守られて』491頁参照)と。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

 

drive.google.com