年間第24主日・B年(21.9.12)

「自分を捨て自分の十字架を背負って  わたしに従いなさい」

 

打とうとする者には背中を任せ、髭を抜こうとする者には頬をまかせた(イザヤ50.6参照)

  早速、今日の第一朗読を振り返ってみましょう。

 朗読箇所は、第ニイザヤの50章の抜粋であります。

 実は、第ニイザヤには、特別な使命を担った人物を描いた四つの「主の僕の歌」がありますが、今日の箇所は、第三の歌にほかなりません。

 因みに、第二イザヤが編集された時代背景ですが、紀元前587年から538年までの49年間に亘(わた)る捕囚時代であります。

 その時代に無名の預言者第二イザヤは、捕囚民のバビロンからの解放と故国への帰還の希望と慰めのメッセージを預言したと言えましょう。

 その預言に登場する主人公が主の僕であります。とにかく四つの歌に分かれていますので、内容もおのずと異なっております。

 実は、第二イザヤのバビロンの陥落の予告のためにバビロニア人たちは彼を迫害したのであります。それだけでなく、捕囚民たちの中にも、迫害に耐えている第二イザヤを冷ややかな目で眺めていた人たちもいたようです。

 この第三の歌では、「僕」という言葉は使われていませんが、特に6節の

打とうとする者には背中をまかせ

   ひげを抜こうとする者には頬(ほお)をまかせた。

   顔を隠さずに、嘲(あざけ)りと唾(つば)を受けた。」と、恐らく第二イザヤ自身が体験したであろう迫害が生々しく描かれています。

 しかも、このような過酷な迫害に耐えぬくことが出来たのは、4節で歌われているように、

「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え

 疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。

 朝ごとにわたしの耳を呼びさまし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」からにほかなりません。

 ちなみに、この歌は、四旬節の「受難の主日」の第一朗読箇所に当られています。

 

行いが伴わないなら信仰はそれだけでは死んだものです(ヤコブ2.17参照)

 次に、第二朗読ですが、全キリスト者あてに書かれた使徒ヤコブの手紙2章からの抜粋であります。

 この手紙ですが、イエスの兄弟ヤコブが書いたとされていますが、実際には彼の名前を使って無名の編集者が書いたむしろ説教集と言えましょう。今日の箇所では、信仰には必ず行いが伴うことを強調しています。

 ですから、冒頭で、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」と、言い切っています。ちなみに、ヘブライ人への手紙の11章において、旧約時代に信仰を全うした偉大な信仰の先達たちを登場させておりますが、特にアブラハムとその妻サラについてのくだりでは、次のように描かれています。

「信仰によって、アブラハムは、自分の財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召されると、それに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。・・・信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実な方であると、信じていたからです。こういうわけで、一人の、しかも、死んだと同様の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブライ11.8-12参照)と。

 

自分を否定し自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい(マルコ8.34b参照)

 最後に今日の福音ですが、マルコによる福音書の8章からの抜粋であります。

 ちなみに、この福音記者マルコが初めて福音書という文学形式を生み出したと言われています。ですから、その冒頭で、次のように福音書の内容を宣言しています。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」(同上1.1参照)と。

 今日の箇所は、8章からの抜粋ですが、場面は、異邦人の地域フィリポ・カイサリアでの弟子たちのイエスに対する信仰告白を、ペトロが代表して、「あなたは、メシアです。」(同上8.29d参照)と、宣言したところです。ちなみに、マタイの平行箇所では、「あなたはメシア、生ける神の子です。」(マタイ16.16参照)と、答えています。そして、マルコは、「するとイエスは、ご自分のことをだれにも話さないように弟子たちを戒められた。」とコメントを加えています。

 まず、「メシア」というヘブライ語の称号ですが、ギリシャ語では「クリストス」となり、すでに旧約時代から、王に即位(そくい)するとき、また、預言者に任命されるとき、そして祭司になるときの儀式で、オリーブ油を頭にたっぷり注ぐことから、「油注がれた者」と言う意味のヘブライ語の「メシア」が、語源であります。

 では、なぜイエスは、このペトロの信仰告白後、「ご自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒(いまし)められた」のでしょうか。

 このイエスの忠告を「メシアの秘密」とも言うのですが、それはメシアという称号は、イエスの受難と復活によってしか明らかにされないので、それまでは、公表してはならないという忠告ではないでしょうか。

 ですから、イエスは、初めて弟子たちに次のように予告なさいます。

「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」のであります。

 ところが、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と。

 ここで言われた「サタン」ですが、悪魔ではなく、「邪魔をする者」という意味で、イエスの歩む道を遮(さえぎ)る「じゃま者」になるなと叱られたのです。そして、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」とは、弟子たちが、あまりにも人間的なとらえ方に偏っているので、むしろ神のみ旨の視点でメシアの業を理解すべきという忠告と言えましょう。

 さらにイエスは、まさに核心に触れる命令をなさいます。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て(否定し)、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」と。

 つまり、イエスの弟子になろうと決心する前に、まず誰を模範とするのかをしっかり学び、それを実行できることを確かめるべきなのです。それは、まず、自分を捨てるまたは否定して自分の十字架を背負うことなのです。つまり福音であるイエスのために命を懸けることに他なりません。ですから、全く新しい観点から価値の転換を体験することでもあります。つまり、あえて別の言い方をするならば、「自分の命を救う最高の方法は、殉教することだ。」と言えるのではないでしょうか。

 今週もまた、日々自分を捨て、自分の十字架を背負って忠実にイエスに従うことができるように共に祈りましょう。

 

 

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