年間第23主日・B年(21.9.5)被造物を大切にする世界祈願日

「神は貧しい人たちを選んで  国を受け継ぐ者となさった」

 本日は、教皇フランシスコが定められた「被造物を大切にする世界祈願日」に当たります。ちなみに、この日の設定の意義について、教皇フランシスコは、2020年9月1日付で、教皇メッセージを発表なさいました。

 その趣旨を、韓国の美(かん)名誉司教様が、今日の「聖書と典礼」の7頁に書かれておりますので、ぜひお読みください。

 では、いつものように、まず今日の第一朗読を振り返って見ましょう。

 今日の朗読箇所は、イザヤ預言書の35章からの抜粋であります。

 このイザヤ預言ですが、紀元前8世紀にユダ王国で活躍していたメシア預言者の第一人者イザヤが編集したと考えられるイザヤ書35章からの抜粋であります。ちなみに近年のイザヤ書の研究により、66章の長いイザヤ書を、編集者と編集年代によって、便宜上1章から39章までを「第一イザヤ」、40章から55章までを、「第二イザヤ」そして、56章から66章までを「第三イザヤ」に分けています。

 ですから、今日の朗読箇所は、第一イザヤに属しますが、内容的には、第二イザヤのテーマである、バビロン捕囚からの解放になっています。

 そこで、イザヤは力強く叫びます。

 「『雄々しくあれ、恐れるな。

 見よ、あなたたちの神を。

 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

 神は来て、あなたたちを救われる。』

 そのとき、見えない人の目が開き

 聞こえない人の耳が開く。

 そのとき

 歩けなかった人が鹿にように踊り上がる。

 口のきけなかった人が喜び歌う。」と。

 ところで預言者たちの活躍にもかかわらず、南のユダ王国の都(みやこ)エルサレムは、紀元前6世紀に台頭(たいとう)して来た新バビロニア帝国の軍隊によって、紀元前587年に攻略され、その戦勝国の占領政策によって、王を初めとする主(おも)だった人々は、新バビロニア帝国の首都バビロンの近くに、三回にわたって強制移住させられるという捕囚時代を迎えたのであります。

 そして、第二イザヤが語るようにその苦役の時が満ち、なんとペルシャ王のキュロスによって解放され、50年ぶりに故国に帰ることができるというのであります。

 ですから、第二イザヤは、次のような慰めと希望のメッセージを預言できたのであります。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、

 あなたたちの神は言われる。

 エルサレムの心に語りかけ、

 彼女に呼びかけよ。

 苦役の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償われた、と。

 罪のすべてに倍する報いを

 主の御手(おんて)から受けた、と。」(同上40.1-2参照)と。

 

神は貧しい人たちを選んで国を受け継ぐ者となさった(ヤコブ2.5参照)

   次に、第二朗読ですが、使徒ヤコブの手紙2章からの抜粋であります。

 ヤコブは、全キリスト者に向けて次のような実践的勧告を書き送っています。

「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。・・・

 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」と。

 因みに教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように切なる願いを訴えておられます。

「貧しい人のために、教会は貧しくあって欲しいと願っています。貧しい人は多くのことを、わたしたちに教えてくれるのです。彼らは信仰の感覚(神の教えを誤りなく理解する感覚)を備えているのに加えて、自分自身の苦しみによってキリストの苦しみを体験しています。わたしたちは皆、彼らから福音化されなければなりません。新たな福音宣教とは、彼らの生活が持っている救いをもたらす力を認め、彼らを教会のど真ん中に迎えなければという招きです。彼らの内にキリストを見出し、彼らの代弁者となり、さらに彼らの友となって、彼らに耳を傾け理解し、彼らを通して神が伝えようと望んでおられる神秘的な知恵を受けるよう招かれているのです。」(同上198項参照)と。

 

 この方は耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる(マルコ7.37参照)

   最後に今日の福音ですが、マルコによる福音の7章からの抜粋であります。

 場面は、異邦人の地域デカポリス地方から再び、ガリラヤ湖のほとりに戻られたイエスが、耳の聞こえない人をいやすという感動的な奇跡物語です。 

 すでに、今日の第1朗読で、イザヤが捕囚民の解放を、「そのとき 見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。」という預言が、実は、メシアであるイエスによって見事に成就したことを、強調する奇跡として受け止めることができるのではないでしょうか。

 それでは、さらに詳しくこの奇跡物語を探ってみましょう。

 まず、最初に気づくことは33節の「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」と言うくだりですが、奇跡が超越的な出来事が起ころうとしていることを示すために、物見高(ものみだか)い人々の目を避ける必要があったのです。また、「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」と、まさに異教徒の間でも、唾は治療の一手段であったことはよく知られています。

 次に、「天を仰いで深く息をつき」ですが、まず、「天を仰ぐ」という仕草は奇跡を行うのは神に力であることを表していると言えましょう。そして「深く息をつき」ですが、病人に対する同情のしるしではなく、任務が難しく敵対者の手ごわいことを意識したまさに神の助けを呼び求める神妙な動作ではないでしょうか。

 このように、イエスが、当時どこにでも大勢いた奇跡行使者の姿で描かれています。

 さらに旧約聖書とのつながりをみるならば、特にイザヤのメシア預言の成就として解釈できます。しかも、最後に人々の驚きを、「この方のなさったことはすべて素晴らしい。」というくだりこそ、今やイエスのうちに新しい人が創造され、まさに人類に決定的な救いをもたらすメシアであることを宣言しているといえましょう。

 今週もまた、日々、イエスと共に生きることによって救いの恵みを深く味わうことが出来るように共に祈りましょう。

 

 

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