年間第22主日・B年(2021.8.29)

「神の掟を捨てて人間の言い伝えを守っている」

 

わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい(申命記4.26参照)

 

 早速、今日の第一朗読ですが、申命記の4章からの抜粋であります。

 この申命記ですが、モーセの三大説教集と最後の勧告という形式でまとめられており、恐らくユダ王国の王マナセ(BC689-642)の時代に初めて編集されたと考えられます。

 しかも、今日の朗読箇所からは、神の山ホレブ(シナイ)でのモーセの律法について語る場面になっております。つまり、モーセが、その後継者ヨシュアの指導の下、ヨルダン川を渡って約束の地に入るイスラエルの民に、二人称で次のように語りかける感動的な場面にほかなりません。

「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。・・・ 

あなたたちはそれを忠実に守りなさい。」と。

 ちなみに、最初に強調されている「掟と法を忠実に行いなさい。」というくだりは、ヘブライ語の原文では「掟と法に聞け」となっており、まさに「聞く」ことに「行う」がすでに含まれていると言えましょう。

 つまり、神の言葉は、本来的に聞くのであり、読むのではありません。つまり、聖書において「神のことばを聞く」という行為には、神のことばに注意深く耳を傾けるだけでなく、まさに心を開き、それを実践し、それに従うことまでも含んでいるのです。

 したがって、反対に神のことばを聞かないことこそが、罪の根源となるのであります。ですから、イエスは次のようにユダヤ人の罪を暴いておられます。

「なぜ、あなた方(がた)はわたしの言うことが分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことが出来ないからだ。・・・神に属している人は神の言葉に聞き従う。あなた方が聞き従わないのは、神に属していないからだ。」(ヨハネ8.43-47参照)と。

 

心に植え付けられた御言葉(みことば)を受け入れ、御言葉(みことば)を行う人になりなさい(ヤコブ1.21b-22a参照)

 

 次に、第二朗読ですが、使徒ヤコブの手紙1章からの抜粋であります。

 この手紙ですが、新約聖書にある七つの書簡つまり「公同書簡」と言われる全キリスト者への手紙にほかなりません。

 ですから、使徒ヤコブの手紙のように、主の兄弟ヤコブが著者である手紙が含まれています。そして、この手紙の受け取り人ですが、「離散している十二部族の皆さん」(ヤコブ1.1参照)にほかなりません。

 ですから著者は、ユダヤ人キリスト教会の中心であるエルサレムから書き送ったと考えらます。しかも、この手紙を書いたのは、一世紀後半のことであったと言えましょう。

 また、文章のスタイルですが、手紙というよりは、次のように説教調で書かれています。

「わたしの愛する兄弟たち、良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源(みなもと)である御父から来るのです。・・・御父は、御心(みこころ)のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。・・・

 心に植え付けられたみ言葉を受け入れなさい。このみ言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

 み言葉を行う人になりなさい。自分を欺(あざむ)いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

 孤児(みなしご)や、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前(みまえ)に清く汚れのない信心です。」と。

 ですから、使徒ヤコブは、実に信仰と行いを切り離すことが出来ないことを、次のように強調しています。

「わたしの兄弟たちよ、たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いが伴わないなら、何の役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるでしょうか。仮に兄弟か姉妹かが、着る者もない、その日の食べ物にも事欠いているとしましょう。あなたがたのうち、誰かが、その人に、『安心して行きなさい。』『たくさん着なさい』『十分に食べなさい』というだけで、体に必要なものを何一つ与えないとするなら、何の役に立つでしょう。信仰もまたこれと同じで、行いを伴わないなら、それ自身、死んだものです。」(同上2.14-17参照)と。

 

あなたたちは神の掟を捨てて人間の言い伝えを固く守っている(マルコ7.8参照)

 

 最後に今日の福音ですが、マルコによる福音の7章からの抜粋であります。場面は、イエスが、当時のユダヤ社会の宗教指導者たちつまり、ファリサイ派の人々と律法学者たちと、特に食物規定に関して激しい論争を戦わしたところです。

 その論争の焦点は、イエスのまさに敵対者たちは、神の目には一体何が清く、あるいは汚れているのか、イエスの教えとは全く違っていたと言うのであります。

 とにかくこの論争の場面では、マルコの文脈では、イエスとユダヤ人敵対者たちとの最後の出会いにほかなりません。しかも、論争の焦点は、汚れ(同上7.15参照)と昔の人の言い伝え(同上7.9,13参照)であり、弟子たちの実際のふるまいに関するファリサイ派の人々や律法学たちの問いかけはそれらの両方を含んでいます。(同上7.5参照)

 しかも、イエスのお答えは、根底にある問題として神の掟と人間の言い伝えについてです。ですから、イエスは、最後に次のように厳しい総括をなさいます。

「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と。    

 ところで、ここでのイエスの教えを、私たちの日常の生き方に当てはめてみるならば、どんなことが反省材料になるでしょうか。つまり、私たちの日々の行いを規定している価値基準は何かということです。

 ちなみに戦後の日本が占領状態にあったとき、日本人の行動を決めるのはいわゆる「恥の文化」であると、アメリカ人の文化人類学者ルース・ベネディクトが分析しましたが、例えば、親が子供を道徳的に教育するために、何を基準にしているかです。つまり、親が子供に「そんなことをすればひと様に対して、みっともない、あるいは恥ずかしと戒めることです。すなわち、神さまから見て何が正しいのか、あるいは間違っているのか、神の掟を基準にしていないことに根本的な欠陥がるのではないでしょうか。

 ですから、モーセは親たちに命じています。

「今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝る時も起きているときも、これを語りきかせなさい。」(申命記6.6-7参照)と。

 

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