年間第21主日・B年(2021.8.22)

「あなたは永遠の命の言葉を持っておられる」

 

わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です(ヨシュア記24.18b)

    早速、今日の第一朗読ですが、旧約聖書のヨシュア記の24章からの抜粋であります。

 内容は、イスラエルの民が、エジプトの奴隷の家から解放され、モーセによって四十年の長きにわたって荒れ野で導かれ、ようやく、乳と蜜の流れる約束の地に入植しますが、モーセは一人群衆から離れ約束の地には入れませんでした。

  そのモーセの後継者として選ばれたのがヨシュアであり、彼の指導の下イスラエルの十二部族がそれぞれ与えられた地域に入植します。

 これら一連の出来事を物語るのがヨシュア記ですが、その著者が誰であったのかは、特定できません。ただ、本書の成立時期は、ダビデ、ソロモン両王の時代の少し以前と言えましょう。

 とにかく、今日の箇所では、大役(たいやく)を果たしたヨシュアが晩年、世を去る前に民全体に対して、主なる神に忠実に従うことの確認を求める場面であります。

「『もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日(きょう)、選びなさい。・・・』

 民は答えた。

『主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。

 私たちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。』」と。

 わたしたちも、わたしたちの信仰を生涯かけて全うするために、絶えず信仰を再確認する必要があります。その典礼的な行為は、毎年、復活徹夜祭で、洗礼と堅信の後(あと)、一同は、悪霊を捨て、神に従うという洗礼の約束を更新しなければなりません。(『聖週間の典礼』54 洗礼の約束の更新参照)

 

キリストに対する畏れをもって互いに仕え合いなさい(エフェソ5.21参照)

   次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、ローマでの最初の獄中生活の期間すなわち紀元61年から63年にかけてコロサイとその近くのラオディキアとヒエラポリスの新異邦人改宗者の間に起こった、キリスト、及び教会に関する問題、特にキリスト教と改宗以前に信じていた土着の宗教が融合する傾向があることを耳にして二通の手紙つまり、コロサイ書とエフェソ書を書き送ったとされますが、エフェソ書は、使徒パウロとは別人が書いたとする研究もあります。

 とにかく、今日の箇所では、信仰共同体は、互いに奉仕する共同体であり、その原型として、夫婦の偉大な神秘であるという次のような教えです。

「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭(かしら)であり、自らその体の救い主であるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。・・・わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。」と。

 ちなみに、キリスト者の家庭こそが、まさに「家庭教会」であり、教会の土台であるという古くからの伝統があります。

 ですから、この伝統がいまだに確立していないという日本の教会の最大の弱点は、信者の家庭がまだ教会になっていないことにあるのではないでしょうか。

 

あなたは永遠の命の言葉を持っておられます(ヨハネ6.68c参照)

   最後に今日の福音ですが、ヨハネ福音記者が伝えるパンの奇跡(しるし)の後(あと)のミサに関する長い説教の最後の箇所に他なりません。

 実は、イエスのこの説教を、聞いた弟子たちですが、次のような反応をあからさまに示したと言うのであります。

「弟子たちの多くの者は、イエスの話を聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。

『あなたがたはこのことに躓(つまず)くのか。それでは、人の子がもといた所に上(のぼ)るのを見るならば・・・。』と、弟子たちの反応をしっかりと受け止められます。

 ここで言われている「人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」というくだりですが、この説教に信用性を与えることになる出来事つまり、イエスが栄光に上げられること(十字架を通して天に上げられること)を、述べておられます。

 ですから、イエスは、続いて次のような大切な説明を展開なさいます。

「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と。

 弟子たちの、極めて物質主義的な追求は、まさに命を与えることのないパンを求めてのことです。それに対してイエスの教えは、彼に代わって命(霊と命は一体)を与える霊を授けるというのであります。

「そして、言われた。『こういうわけで、わたしはあなた方に、<父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない>と言ったのだ。』このため、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」

 わたしたちも、長い間、ミサに参加しなくなり、命の言葉とパンをいただかなくなれば、日々、イエスと共に歩むことが難しくなります。

 ですから、弟子たちを代表して、ペトロが見事な信仰告白をします。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と。

 今日(こんにち)、コロナ禍の中、感染者が増え続けるという非常事態のため、教会活動が大幅に制限されています。

 この深刻な試練を乗り越えるために、まさに各家庭が教会となり、日々、永遠の命の言葉を、家族で分かち合い、聖霊に生かされ、たくましい信仰をまず家庭で育てることが出来るよう努めるべきではないでしょうか。

 それは、家庭内でそれぞれが福音宣教者になることに他なりません。

 ですから、使徒パウロは弟子のテモテに次のように具体的に命じています。

「あなたに厳かに命じます。み言葉を宣(の)べ伝えなさい。善い時にも、悪い時にも、常にこれに専念しなさい。・・・どんな場合にも、身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教する者としての役割を果たし、自分の務めを全うしなさい。」(テモテへの第二の手紙4.1-5参照)

 

 

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