年間第27主日・A年(2020.10.4)

「聞いたこと見たことを実行しなさい」

 

神の民イスラエルの不忠実

  今日の第一朗読は、紀元前8世紀にユダ王国で活躍した預言者イザヤが、神の期待を裏切った王国の指導者階級を厳しく批判した預言の抜粋であります。

 因みに旧約聖書では、主なる神を農夫に、イスラエルをぶどう畑にたとえられます。ですから、イザヤは、イスラエルの不忠実の過ちを、次のように訴えるのであります。

 「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。・・・

 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。・・・

 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに

 なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

 さあ、お前たちに告げよう、わたしがこのぶどう畑をどうするか。

 囲いを取り払い、焼かれるにまかせ

 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ

 わたしはこれを見捨てる。」と。

 実は、すでにモーセの時代にも、イスラエルは、次のような重大(じゅうだい)な過ちをおかしております。

「民全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像(ちゅうぞう)を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き『明日(あす)、主の祭りを行う』と宣言した。」(出エジプト32.3-5参照)と。

 ちなみに教皇フランシスコは、今日(こんにち)の世界における地球規模の偶像崇拝について、次のように警告しておられます。

「わたしたちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真に人間的な目標を欠く、貨幣崇拝と顔の見えない経済制度の独裁と権力というかたちで、古代の雄牛の崇拝が、新しい、冷酷な姿を表しているのです。」(『福音の喜び』55項参照)と。

 

農夫たちの反乱

 次に、今日の福音で、福音記者マタイは、当時のユダヤ社会の指導者たちである祭司長や民の長老たちを、救いの歴史をぶどう園のたとえによって次のように厳しく非難なさいます。

 「ある家の主人がぶどう園を作り、・・・これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、・・・僕たちを農夫のところへ送った。だが、農夫たちはこの僕(しもべ)たちを捕まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を打ち殺した。・・・そこで、最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』といって、主人は自分の息子を送った。・・・そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。・・・

イエスは言われた。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。《家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

 これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。》

だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。』」と。

 実は、このたとえが教会の中で語られていくうちに、イエスの時代とは異なる社会状況に生きる人々への励ましとしても読み直されました。

 今日(きょう)の福音では、34節の「収穫の時が近づいたとき」という表現にマタイの解釈の特徴があると言えましょう。つまり、実りの時期が「近づいた」とういうだけで収穫を受け取りにいくのは奇妙ではないですか。

 実は、マタイは、この言葉に「エルサレムに近づいた」イエスの姿を重ね合わせているのではないでしょうか。まさに、「近づいた実り」は、エルサレムでの十字架に近づいておられるイエスを指していると言えましょう。

 したがって、34節で言われている「収穫」とは、神がイエスによって実現なさろうとしている全人類の救いを表しているのではないでしょうか。

 ですから、イエスの死と復活を目の当たりに、それを信じた人々がこの譬(たと)えを読むと、農夫に殺される「息子」によってイエスを髣髴(ほうふつ)とすることが出来ます。「息子」は、ぶどう園の外に放り出されて殺され、イエスはエルサレム城外のゴルゴダで十字架に掛けられました。

 とにかく、初代教会は、このようなたとえを読み解くことによって、ユダヤ人以外の異邦人宣教が神の救いの計画であると確信したと言えましょう。

 

出かけて行って実を結ぶ

 ちなみに、今日の第二朗読は、使徒パウロが獄中(ごくちゅう)からフィリピの教会へ送った励ましの手紙4章からの抜粋であります。そのころ、フィリピの教会は、反対者たちによって脅かされるという試練の最中(さなか)、投獄(とうごく)という試練を受けている使徒パウロからの励ましを必要としていたのではないでしょうか。

 ですから、使徒パウロは、次のように激励(げきれい)の手紙をしたためます。

 「どんなことでも、思い煩(わずら)うのをやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。・・・

 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。」と。

 今日(こんにち)、コロナ禍(か)のために、教会活動は、いろいろと制限されておりますが、たとえ教会に集まることができなくても、まさに派遣されたそれぞれの家庭、学校、職場などで、福音をあかしする派遣された教会として愛の実践に励むことができるのではないでしょうか。つまり、月曜から土曜日までを、教会の開店休業にするのではなく、むしろ派遣された教会として使徒職に派遣されたそれぞれの場で励むことができるのではないでしょうか。ちなみに近年、教皇フランシスコは、今までの内輪向きの教会から、「出向いて行く教会になるよう」、次のように励ましてくださいます。

「つまり、教会の全構造をいっそう宣教へと向かうものとすること、すべての領域で通常の司牧活動をより広くいっそう開かれたものとすること、司牧に携わる者が常に『出向いて行く』姿勢であるよう励ますことです。・・・」(『福音の喜び』27項参照)。「神のことばには、神を信じる者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと出ていくようにと呼びかけを受け入れました(創世記12.1-3参照)・・・今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』ということばは、教会の常に新たにされる現場とチャレンジを示しています。・・・すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めている道を識別(しきべつ)しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけに応えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれています。」(同上20項参照)

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、愛の実践に励むことができるように共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/09/29/000000


【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

聞いたこと見たことを実行しなさい「年間第27主日・A年(20.10.4).pdf - Google ドライブ