「婚宴は客でいっぱいになった」
すべての顔から涙をぬぐい(イザヤ25:8b参照)
早速、今日の第一朗読ですが、紀元前5世紀ごろ、イスラエルが戦勝国バビロニア帝国の首都バビロンの近くを流れる運河のほとりに、強制移住させられていた捕囚時代の無名の預言者の希望と慰めのメッセージと言えましょう。
そこでこの預言者は、当時のオリエント世界の覇者(はしゃ)バビロニア帝国やペルシャ帝国が世界制覇(せいは)を目指したことに代わって、なんと「万軍の主」なる神自らが、王となって世界を支配なさるときが到来したと言うのであります。
その偉大な救いの出来事を、祝宴のイメージで、次のように見事に預言しています。
「万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。・・・
主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
ご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」と。
この祝宴のイメージで語られる終末に完成する神の救いのみ業は、まさに地球規模の出来事になるのであります。
また、この預言者は、メシア的な祝宴においては、すべての制限が取り除かれる、普遍性を強調しております。
ここで言われている「良い肉と古い酒」は、上等な肉と、長い年月を経て成熟した上等なぶどう酒のイメージによって救いの完成の豊かさを表していると言えましょう。
しかも、終末における救いの完成に至るまで、闇に包まれて光を見ることの出来ない魂からその「覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくさる」という預言であります。
つまり、その人が所属する民族が永久に存在し続け、子孫のうちに自分の名が生き続けると言うのであります。
しかも、神は他民族によって滅ぼされるような民族をなくし、まさにすべての民の顔から涙をぬぐい去る日が必ず来るという主張であります。
ですから、この箇所では、黙示文学的なものの見方が顔を覗かせていると言えましょう。
神はわたしを生き返らせ(詩編23:3参照)
次に、今日の答唱詩編ですが、詩編23編からの抜粋であります。
ですから、最初の節は、「主は羊飼い、わたしは何も欠けることがない。」と、羊が自分を導いてくれる羊飼いに対しての全面的な信頼の宣言になっております。
そして、「神はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいの水辺に伴われる。」と、歌います。
つまり、詩編作者は、2節で、神である羊飼いがまさに優しい心で羊たちを導き、豊かな牧場(まきば)で養ってくださるという深い信頼を表しています。
ここで言われている「緑の牧場」ですが、「緑の」とは、芽を出したばかりの若草を指しますが、一番牧草を刈り取ったあとの二番牧草を指すこともあるそうです。
実は、一番牧草は、芽を出したすぐあとに茎が伸びてきて穂をつけ滋養タップリの牧草になるのですが、二番牧草は、柔らかいままで成長するので、とてもよい牧草になるのです。
ところで、砂漠地帯は、乾き切った大地ですが、ひとたび雨が降るとそれまで眠っていた種が一斉に芽を出し、あたり一帯みずみずしい草原になるのです。
次に、「神はわたしを生き返らせ、
いつくしみによって正しい道に導かれる。」と、歌います。
この「神はわたしを生き返らせ」は、「魂を生き返らせてくださる」とも、訳すこともでき、「魂」は、ヘブライ語では、息、いのち、願いなど多くの意味があり、また「魂が去って行くとき」とは、人が死に、また、魂が元に返ると人は生き返ることを表しています。
ですから、「魂」によって、まさに死と生命、つまり恵みの力や神の力を人間の中で最も敏感に感じる取ることができると言うのです。
従って、「生き返らせる」とは、「私の魂を立ち帰らせる」とも訳すことが出
来、まさに復活体験ではないでしょうか。
続いて、「あなたは はむかう者の前で、
わたしのために会食を整え、
わたしの頭に油を注ぎ、
わたしの杯を満たされる。」と、救いの完成を表す「会食」において、来客へのもてなしのしるしとして、客の頭にオリーブ油が注がれるのであります。
婚宴は客でいっぱいになった(マタイ22:10参照)
ところで、すでに、先週の福音が語る「ブドウ園と農夫」のたとえによって、まさに自分たちのことが語られたと気づいた祭司長や長老たちと、イエスとの対立はさらに激しくなります。
続いて、今日の福音において、救いに招かれた者のあるべき姿が、婚宴のたとえによって、語られます。
つまり、「そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」と言うのであります。
ちなみに、このたとえに登場する花婿である王子の来るのを待ちかまえている善人も悪人もとは、死んで復活させられたイエスが再び来られるのを待っている教会の姿を示していると言えましょう。
けれども、王への敬意を表す「婚礼の服」を着ていない者は、「外の暗闇に放り出されてしまいます。」つまり、わたしたちは、ただ婚宴に参加するだけでなく、「神の御心(みこころ)を行う」(マタイ7:21参照)責任があります。
そのために、使徒パウロが勧めているように、「日々、自分のからだを神によろこばれる聖なる生けるいけにえとして献げ、心を新たにし、回心し、何が神の御心(みこころ)であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全な事であるかをわきまえるようにならなければなりません。」(ローマ12:1b-2参照)。さらに、「イエスの命じる互いに愛し合うという掟(おきて)の実践を促すために、出かけて行って実を残しましょう。」(ヨハネ15:12-17参照)
今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、愛の実践に励むことができるように共に祈りましょう。
※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/10/06/
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婚宴は客でいっぱいになった「年間第28主日・A年」(20.10.11).pdf - Google ドライブ