年間第26主日・A年(2020.9.27)

「他人のことにも注意を払いなさい」

回心への呼び掛け

   早速、今日の第一朗読ですが、紀元前597年の第一回バビロン捕囚の際に戦勝国の首都バビロンの近郊を流れる川のほとりに強制移住させられた、預言者エゼキエルが編集した預言書18章からの抜粋であります。

 そこで、エゼキエルは、捕囚という屈辱に満ちた試練は、先祖からの罪の結果であると、捕囚民に回心を次のように力強く呼びかけるのであります。

 「イスラエルの家よ。・・・正しくないのは、お前たちの道ではないか。・・・しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業(わざ)を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」と。

 ここで言われている、「悔い改めて」ですが、今日(きょう)の福音で言われている「考え直して」に通じる言い回しで、最近では「回心」回す心と書きます。つまり、過ちを改めるだけでなく、モノの見方や考え方を、根本的に切り変える体験にほかなりません。

 ですから、捕囚民が自分たちの犯した罪から離れて神に立ち帰る新しい生き方に替える体験と言えましょう。

 ちなみに、今日(きょう)の「世界難民移住移動の日」に当たり、カトリック東京国際センターの大迫(おおさこ)こずえさんが、『聖書と典礼』の7頁で、次のように書いています。「世界人権宣言採択から70年以上を経た今、わたしたちがキリスト者として行うべきことは何かを明確に見つけなければならない」これは、まさにわたしたちの回心への呼び掛けではないでしょうか。

 

メルケル首相のスピーチから

  では、この時宜(じぎ)にかなったアピールに応える今日(こんにち)における地球規模の回心についての具体的な糸口を探ってみましょう。

 実は、ドイツのメルケル首相は、四年前の4月14日、ベルリンでの「ドイツ・カリタスの年次パーティー」で、次のような熱弁をふるいました。

 「わたしたちは、経験から多くを学ばなければいけません。わたしたちは一つの世界に生きています。この世界は決して理論的なすがたではなく、実際的な行動を起こすよう要求しています。わたしたちは、難民を生み出す原因と闘わなければいけません―政治的交渉によって、賢い開発援助によって、その他の措置(そち)によって―そうしなければ、難民を生み出す圧力はより強まるでしょう。つまり、わたしたちは自分たちの安全だけではなく周囲の安全をも保証するために、いまよりもずっと多く、ヨーロッパの地域を越えて目配りをしなくてはいけないのです。」(『わたしの信仰』228-229頁参照)と。

 ですから、次のような具体的な援助を実施するのであります。

 「何十万といる難民のため、てきぱきと職場を用意できるような前提をつくっていくことになります。わたしたちは―難民がドイツにとどまれる見通しの大きさに従って―さまざまな教育の機会を提供する予定です。」(同上230頁参照)と。

 したがって、既に確認したかつての捕囚時代にエゼキエルが、捕囚民に呼びかけた回心も、彼らの行った悪から離れ、生き方を全面的に神に向けて方向転換をするという極めて具体的な勧告だったと言えましょう。

 

後(あと)で考え直して

 ですから、今日の福音のテーマである自分の生き方を根本的に変えるつまり回心の体験に見事(みごと)につながるのではないでしょか。

 今日(きょう)の福音で、イエスは、頑なな祭司長や民の長老たち、つまり、当時のユダヤ社会の権力者たちに向かって、次のようなたとえを投げかけます。

 「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日(きょう)、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後(あと)で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。・・・イエスは言われた。『アーメン、わたしは宣言する。徴税人や娼婦たちの方(ほう)が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。』」と。

 このように、イエスは、祭司長や長老たちではなく、まさに彼らが軽蔑していた徴税人や娼婦のほうが神の国に先に入ることが出来るとあからさまに主張なさいます。なぜなら、祭司長や長老たちは、人間の現実の姿を謙虚に認めず、自分たちこそ律法を忠実に守っているので、神のみ旨を果たしていると過信していたので、洗礼者ヨハネが示した義の道に結果的に従わなかったからにほかなりません。ちなみに、このたとえで強調している「後で考え直す」とは、結果的に真(まこと)の回心の体験になるのではないでしょうか。ですから、祭司長や長老たちは、自分たちの思いが神の思いと一致していると思い込んでいたので、実際には神のことばに従うことができなかったと言えましょう。つまり、「後で考え直す」チャンスを逃してしまったからにほかなりません。

 では、今日(こんにち)の世界のただ中で、神の思いを実行するために、具体的にはどのような発想転換が求められているのでしょうか。

 このことについて、教皇フランシスコは、2013年5月24日の司牧に関する評議会総会での講演で、極めて適切な次のような指針を与えてくださいました。

「教会は母です。教会の母のようなまなざしは、特別の優しさと親しみを込めて、自分の国を逃れ、避難先で根なしの状態と適応の間で揺れている人々に向けられています。・・・暴力、虐待、家族愛の喪失(そうしつ)、トラウマ、家からの避難、難民キャンプでの未来への不安など、これらすべては人間の尊厳を壊すものです。ですから、キリスト者一人ひとり、またその共同体にいる人たち全員が現実的にこの問題に向き合わねばなりません。」(『教皇フランシスコいつくしみの教会』174-5参照)と。

 また、同年9月10日の難民支援センターでの講演で、次のように強調なさいました。「仕えるとはどういう意味でしょうか。来る人をしっかり見つめ歓迎することです。・・・ただ寄り添う姿勢だけでは十分ではありません。・・・本当のいつくしみ、神がわたしたちにくださり、教えてくださる慈しみは正義を必要とします。貧しい人々が貧しさを克服する手だてを見つけるようにしなければなりません。・・・「守る」とは、最も弱い人の立場をとるということです。」(同上177~180頁参照)と。

 最後にまとめとして、最後の審判における栄光につつまれた人の子の判決を改めて聞きましょう。「アーメン、わたしは宣言する。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたことは、わたしにしたのである。」(マタイ25.40参照)と。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、愛の実践に励むことができるよう共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/09/15/000000_1


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