年間第25主日・A年(2020.9.20)

 「日々(ひび)みこころを行う」

主に立ち帰る(日々の回心)

  早速、今日の第一朗読ですが、第二イザヤと呼ばれる無名の預言者が、紀元前6世紀ごろ、編集した捕囚民に対する慰めと希望のメッセージと言えましょう。まさに半世紀にわたって耐え忍んだ捕囚時代が終わり、いよいよ故国に帰ることが出来るために、次のように回心を呼び掛けるのであります。

 「神に逆らう者はその道を離れ

 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。

 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。

 わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」と。

 確かに、神に背いたために、戦勝国の首都バビロンの近くの川のほとりに、強制移住させられた屈辱の試練が終わり、ようやく解放されるために今こそ、神に立ち帰るべきではないかという預言者の叫びにほかなりません。

 しかも、この回心こそは、人間のたくらみを捨てて、神の思いに立ち帰ることではないかと、訴えるのであります。

 ですから、後半で、神の思いと人間の思いの根本的な違いを、次のように美しく強調するのであります。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

 わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。

 天が地を高く超えているように

 わたしの道は、あなたたちの道を

 わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」と。

 ちなみに、前半で言われている人の「たくらみ」と、後半で言われている「思い」とは、ヘブライ語では同じ言葉なので、まさに回心とは、人間の思いを捨てて、神の思いに立ち帰ることではないでしょうか。

 したがって、それはマタイ福音記者が伝える、次のような場面でのペトロの回心に結びつけることができるのであります。

 マタイは、次のように語ります。

「この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの。神のことを思わず、人間のことを思っている。』」(マタイ16.21-23参照)と。

 つまり、「神のことを思う」すなわち、「神の思い」に従わないで、「人間のことを思う」すなわち、「人間の思い」に従っていることを、厳しくお叱りになったのであります。

 ですから、イエスの弟子になるためには、どうしても自分の思いや考え、また、願望などを捨てなければならないのであります。したがって、イエスは、弟子たちに次のように命じられます。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(同上16.24b参照)と。

 ここで言われている「自分を捨てる」は、「自分を否定する」とも、訳せるのですが、とにかく、日々、忠実にイエスに従うためには、自己主張を止め(や)、つまり自分を全面的に否定しなければ、イエスに従うことが出来ないと言うことではないでしょうか。

 

神の思い行う(マタイ7.21参照)

  次に、今日の福音ですが、神の国の次のようなたとえを、イエスが弟子たちに語る場面であります。

 「そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それを、受け取ると、彼らは、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中(れんちゅう)は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱(しんぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。』」と。

 ここで、言われている「やりたいのだ」は、ギリシャ語では「自分の思い」となるので、神の国の基準は、あくまでも「神の思い」に他ならないことを強調していると言えましょう。

 ですから、同じマタイは、神の国は入るためには、御心(みこころ)を行う」ことが、求められることを、次のように具体的に強調しております。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしは御名(みな)によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全く知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(同上7.21-23参照)と。ここで言われている「父の御心を行う」とは、既に確認したように「人間の思いを捨てて神の思い」を実践することにほかなりません。

 ですから。「父の御心を行う」というキリスト者の基本的生き方については、使徒パウロは、その手紙のなかで、極めて簡潔に核心に触れる勧めを、次のように教えてくれます。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける(い)いけにえとして献(ささ)げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善(よ)いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12.1-2参照)と。

 したがって、わたしたちは、このパウロの勧告を主日のミサにおいて確認し、一週間、派遣されたそれぞれの場で、キリスト者の生き方を実践することではないでしょうか。

ちなみに、第二バチカン公会議の典礼改革によってミサこそ、キリスト者の生き方の源泉であり頂点であることを、次のように宣言しております。

「彼らは、キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である感謝のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいえにえとともに自分自身をもささげる。こうして信者は、奉納(ほうのう)においても交わりの儀においても、無秩序にではなく、それぞれの固有なしかたで、典礼行為において固有の役割を果たす。さらにミサの集会においてキリストのからだによって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表わす。」(『教会憲章』11項参照)と。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/09/08/000000


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