年間第24主日・A年(2020.9.13)

「神の無償の愛に生かされて」

 

隣人を愛しなさい(レビ記19.18参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、旧約聖書の知恵文学に属するシラ書の27章と28章からの抜粋であります。それは、紀元前190年頃、シラの子イエススが、ヘブライ語で、書いた文書であります。実は、当時、地中海沿岸一帯に影響を与えていたヘレニズム(ギリシャ)文化に対抗して、伝統的なユダヤ教の宗教心が衰退(すいたい)しないようにという危機感を抱き、信仰にしっかり留まるようにとの切なる思いを込めて編集したと考えられます。ですから、掟の土台である隣人愛を軸にして、次のように命じるのであります。

 「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。・・・自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。・・・掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。」と。

  ですから、この個所は、既に、レビ記で命じられている「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19.18参照)と言う掟の、まさに知恵文学的な解説と言えましょう。

  ちなみに旧約聖書で言われる「隣人」とは、ユダヤ民族に限定されており、異邦人は含まれておりません。ですから、イエスが、改めて与えてくださった愛の掟は、同胞愛を超えるまさに普遍的な掟であることを、福音記者ヨハネは、次のように強調しております。

「神は、独(ひと)り子を世のお遣(つか)わしになりました。その方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから。わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(ヨハネ一、4.9-11参照)と。

 

主のために生きまた死ぬ

 ですから、今日の第二朗読で、使徒パウロは、いとも大胆に、次のように宣言することができたのではないでしょうか。

 「わたしたちの中には、だれ一人(ひとり)自分のために生きる人はなく、だれ一人(ひとり)自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と。

 したがって、わたしたちが、イエスよって示された神の無償の愛を、人々に告げ知らせるために、日々、イエスによって派遣されていることを、次のように確認することが出来るのではないでしょうか。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。・・・あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15.12-17参照)と。

 

心から兄弟を赦す

 次に今日の福音を振り返って見ましょう。

 まず、今日の朗読箇所のマタイ福音書18章の文脈を確認して見ましょう。

 この章は、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(マタイ18.1参照)という弟子たちの質問から始まり、そこで、「イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『アーメン、わたしは言う。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。』」(同上18.2-4参照)と。

 そして、さらに、小さな者の一人をつまずかせる者の不幸を警告し、「迷い出た羊」のたとえに続いて、兄弟を得るための忠告をなさいます。

 そして、今日のたとえが語られます。

 つまり、兄弟である仲間の赦しについて、次のようにお答えになり、たとえによって具体的に説明なさいます。

 まず、「ペトロがイエスの所に来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」と。

 因みに、ユダヤ教のラビは、兄弟を赦す回数を三回までと教えていますから、七の七十倍とは、まさに無制限にということではないでしょうか。つまり、イエスは、赦す心に決して限度がないばかりでなく、「赦さない心」が、問題なのだと、マタイ固有の天の国のたとえを語られます。

 「ある王が、家来たちに貸した金の決済(けっさい)をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」と言うのです。

 つまり、神の無償の愛に基づいた神の正義の前では、「決済」(同上18.23参照)は無くなってしまうのであります。ですから、この家来の願いを聞き入れ、王は借金を帳消しにするのであります。ここでここで言われている「一万タラントン」(同上18.24参照)とは、当時にしてみればまさに莫大な額であり、事実上、返済不可能と言えましょう。ですから、「どうか、待ってください。きっとお返しします。」(同上18.26参照)という家来の約束は、主人の心を動かす企(くわだ)てとして全く成り立たないのであります。

 したがってこの王の赦しこそは、全く無償のものであり、ただ「憐れみ」(同上18.27参照)、すなわち愛によるものにほかなりません。

 ところが、この家来が取った行動は、全く正反対であります。つまり、彼の仲間は、わずか百デナリオン(当時の労働者の一日の賃金が一デナリオンであった)を彼に借りているに過ぎないのであります。にもかかわらず、「その中間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた。」と言うのであります。

 ですから、主人からの大切な教訓を学んでいなかったこの不届(ふとど)きな家来(けらい)は、王の怒りに触れて「借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」(同上34参照)のであります。

そこで、イエスは、忠告なさいます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(同上18.35と。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、愛の掟の実践に励むことが出来るよう共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)
https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/09/08/000000


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