年間第22主日・A年(2020.8.30)

「心を新たにして自分を変えていただく」

 

あなたに捕えられた(エレミヤ20.7参照)

 早速、今日の第一朗読ですが、紀元前7世紀末から6世紀初めにかけてエルサレムで活躍した預言者エレミヤが編集した預言書の20章からの抜粋であります。

 しかも、今日の個所は、エレミヤが預言者としての使命の遂行(すいこう)に伴う不安や、迫害の苦しみを、率直に次のように神に訴えている場面であります。

 「私は一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲(あざけ)ります。・・・主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。」と。

 そもそも預言者の使命は、神から預かったみことばを、人々に告げ知らせることに他なりませんが、当然のことながら頑なな人々からは、迫害を蒙る宿命に耐えなければなりません。

 まず、ここで確認すべきことですが、エレミヤが預言者として召された体験を、「主を、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて、あなたに捕えられました。」と、あからさまに告白していることです。

 その真意は、まさにこの世の損得という価値観からすれば、神に従い、神のことばを人々に告げ知らせることは、得することではなくかえって損をすることに他ならないことを、告白しているのではないでしょうか。

 なぜなら、「神に捕らえられた」からなのであります。

 実は、この「神に捕らえられた」という強烈な体験は、使徒パウロの復活のイエスとの感動的な出会とも通じるのではないでしょうか。使徒パウロは、その神秘的体験を次のように分かち合ってくれます。

 「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているのです。」(フィリピ3.10-12参照)と。

 さらに、預言者エレミヤは、苦しみを味わいながらも、みことばを告げ知らせずにはおられないことを、次のようにあからさまに告白しています。

 「主の名を口にすまい

 もうその名によって語るまい、と思っても

 主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて

 火のように燃え上がります。」と。

 

この世に倣(なら)ってはならない

 次に、第二朗読ですが、使徒パウロが、まだ一度も訪れたことのない、ローマの教会の信徒宛てに、コリントに滞在していた57年から58年にかけて、キリスト教の基本的な教えについて書いた手紙の12章の冒頭の箇所であります。それは、キリスト者の新しい生き方の総括に他なりません。

 まず、キリスト者の礼拝の本質に触れる次のような説明をしております。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献(ささ)げなさい。」と。

 ちなみに、旧約時代の礼拝においては、穀物や動物をいけにえとして献げていました。たとえば、レビ記には、この献げ物についての規定がくわしく説明されております。(レビ記2.1-17参照)

 ただ全く例外的に、アブラハムの最愛の独り息子イサクを、いけにえとして献げよという最大に試練がありました(創世記22.1-13参照)

 さらに、旧約時代の終わりに活躍した預言者マラキは、新約時代のいけにえについて、次のように預言しております。

 「日の出るところから日の入(い)る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香(こう)がたかれ、清い献げ物がささげられている。」(マラキ1.11参照)と。

 さらに、第二バチカン公会議によって刷新されたミサへの信者の参加について、次のように説明されております。

「信者は、キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である感謝のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえと共に自分自身をもささげる。こうして、すべての信者は、奉納においても聖体拝領においても、・・・それぞれ固有のしかたで、典礼において固有の役割を果たす。」(『教会憲章』11項参照)と。

 また、使徒パウロは、次のような忠告を加えております。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分自身を変えていただき、何か神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と。

 実は、福音記者ヨハネも、その手紙の中で、次のように勧告しております。

 「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(ヨハネ一、2.15-17参照)と。

 

自分を否定し主に従う

 最後に今日の福音ですが、マタイによる福音書の16章からの抜粋であります。しかも、文脈から21節から23節までと、24節から27節までを別々の場面として分けることができるのではないでしょうか。

 まず、前半ですが、フィリポ・カイサリア地方、つまり異邦人の地域でペトロが弟子たちを代表して、イエスに対する信仰告白をいたします。

 「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」(マタイ16.16参照)と。

 それから、今日の最初の場面に続きます。つまり、初めて、弟子たちにだけ、イエスは、ご自分の受難と復活についての最初の予告をなさったのであります。

 ところが、ペトロが、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と、イエスをいさめ始めます。このくだりを、次のように言い換えることもできます。「主よ、(神)があなたを憐れんで下さいますように。このことはあなたに決して起こってはならない!」と。

 それに対して、イエスは、ペトロを、叱りつけます。「サタンよ、わたしの後に立ち去れ。お前はわたしにとってつまずきだ。お前は神のことではなく、人間的なことを考えている。」と。

 それから、改めて、弟子たちに宣言なさいます。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と。

 ここで、言われている「捨てる」ですが、「否定する」とも訳せます。ですから、自分を全面的に否定し、自分の命までもささげるならば、永遠の命を得ることが出来ると言うのであります。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、福音を告げ知らせることができるように共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/08/18/000000

 

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派遣の教会を育てる「年間第21主日・A年」(20.8.23).pdf - Google ドライブ