年間第20主日・A年(2020.8.16)

「貧しい人は福音を告げ知らされている」

全ての民の祈りの家

  早速、今日の第一朗読ですが、便宜上第三イザヤと呼ばれる無名の預言者が編集したと考えられるイザヤ書56章の抜粋であります。この預言者が活躍した時代背景は、捕囚時代が終わり故国に帰ることが出来た紀元前5世紀の初めのエルサレムであります。

 それは、神殿を再建し、神の栄光を待ち望んだ時代でありますが、その栄光がなかなか示されないので人々の神への信頼が揺らいだ時代にほかなりません。

 そこで、第三イザヤは、なんとユダヤ人以外の「異邦人の救い」を、次のように大胆に預言したのであります。

 「主のもとに集ってきた異邦人が

 主に仕え、主の名を愛し、その僕(しもべ)となり・・・

 わたしは彼らを聖なる山に導き

 わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。・・・

 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と。

 このように神の救いの歴史において、救いの道具として選ばれたイスラエルは、神の救いの力を、すべての民に示す使命があることが確認されたと言えましょう。

 ですから、今日の福音で語られているイエスは、異邦人カナンの女性の娘を悪霊から解放するために、次のように宣言なさったのであります。

 「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と。

 確かに、マタイ福音書では、復活前のイエスの活動は、「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、断言されたのですが、神の計画は、救いの道具として選ばれたイスラエルによって、まさにすべての民族が神の救いに与かることにほかなりません。

 したがって、今日の福音におけるイエスの悪霊から娘を解放なさったという奇跡は、新約時代におけるその最初の実例と言えましょう。

 

貧しい人のための貧しい教会となる

  そこで、この「異邦人の救い」が、今日(こんにち)の世界の現状においては、一体どのように実現して行くのでしょうか。

 つまり、聖書が語る神の救いの計画に従って、神の救いの道具である教会が、あらゆる民族、国民に福音を、宣(の)べ伝えるために、どのように宣教活動を展開していくべきなのか、そのために根本的な姿勢転換が求められているのではないでしょうか。

 たしかに、二千年以上の宣教の歴史を、振り返るとき、特に16世紀以降、西欧中心の教会が、初めて異民族のために、特に海外宣教活動という方法で、西洋以外の世界に派遣されました。

 そして、21世紀に入った今日、それぞれの国々で誕生した教会は、一体どのような福音宣教を実践すべきなのでしょうか。

 実は、丁度7年前、第266代教皇に選ばれた教皇フランシスコは、コンクラーベ(教皇選挙)で、確かに票が集まり、得票数が規定の三分の二を超えると、場内から拍手が起こりました。そのとき、彼の隣にいたブラジルのサンパウロ名誉大司教で、教皇庁聖職者省名誉長官のクラウディオ・フンメスは、ベルゴリオを抱擁しながら、これまで通り、教皇になっても貧しい人のことを忘れないようにと、言ったそうです。そこでべルゴリオの心中でおこったことを、教皇フランシスコは、次のように語っておられます。

 「貧しい人々。貧しい人々。このことばがわたしの中に入ってきました。その後(あと)すぐに、貧しい人との関連で、わたしはアッシジのフランチェスコのことを考えました。投票数の計算が続き、すべて終わるまで、戦争のことを考えました。フランチェスコは平和の人です。こうしてアッシジのフランチェスコという名前がわたしの心に入ってきました。フランチェスコはわたしにとって貧しさの人、平和の人です。被造物を愛し、守った人です。現代においても、わたしたちは被造物とあまりよくない関係をもっているのではないでしょうか。フランチェスコという人、この貧しい人は、この平和の精神もわたしたちに与えてくれます。・・・・どれほどわたしは貧しい教会を、貧しい人のための教会を望んだことでしょうか。」と。

 実は、イエスはルカ福音書において、洗礼者ヨハネの二人の弟子たちに、ご自分の働きについて、次のように説明なさっておられます。

 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人が見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患って(わずら)いるひとは清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(ルカ7.23参照)と、まさに人の助けを必要としている弱き人々を、総括するのが「貧しい人」に、ほかなりません。

 ですから、貧しい人々にこそ優先的に福音を伝えなければなりません。

 

出向いて行く教会となる

 さらに、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、まさに今日の教会の基本的な指針を示しておられると言えましょう。

 それは、「出向いて行く教会となる」ことにほかなりません。

 つまり、貧しい人々の貧しい教会になるために、教会は、内輪向きの維持管理の共同体から脱皮して、外に向かって開かれた教会となるため、貧しい人々のもとに出向いて行かなければなりません。ですから、教皇は次のように強調なさいます。

 「神のことばには、神が信じる者たちに呼び起こそうとしている『行け』という言動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へと出て行くようにという呼びかけを受け入れました(創世記12.1-3参照)。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3.10参照)という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました(同上3.17参照)。・・・ 今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』という言葉は、教会の宣教のつねに新(あらた)にされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。・・・わたしたち皆が、その呼びかけに応えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです。」(『福音の喜び』20項参照)と。

 この勧告こそ、まさに今日(こんにち)の教会の在り方の根本的な姿勢転換、つまり回心への呼びかけではないでしょうか。教会が、自己防衛し、現状維持に留まっている限り、宣教共同体となるという本来の生き方からそれてしまい、霊的な活力も減少し、成長が止まってしまい、むしろ後退してしまう危険があるのではないでしょうか。

 確かに、第二バチカン公会議の典礼改革は、「典礼は教会が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れでる源泉である。」(『典礼憲章』10項参照)と、典礼の重要性を確認したのですが、教会の基本的姿勢転換がない限り、典礼の力は、教会の外にまで広がって行かないのではないでしょうか。つまり、ミサの終わりの派遣を実践しない限り、月曜日から土曜日まで、教会を事実上開店休業にしてしまうのではないでしょうか。即(すなわ)ちミサでいただいた霊的な力を派遣されるそれぞれの場で発揮することが出来ない状態にとどまっていないでしょうか。ですから、教皇フランシスコは、わたしたちの根本的な回心を次のように勧告しております。「弟子たちの共同体の生活を満たす福音の喜びは、宣教の喜びです。喜びに満ちて派遣されたところから戻って来た七十二人の弟子たちはそれを体験しました(ルカ10.17参照)・・・この喜びは、福音が告げられ、実を結び始めていることのしるしです。けれどもこの喜びには、自我から出て、自分を捧げる、つまり自己からの解放が必要です。それは、つねに、新に、より遠くに、種を蒔き続けることにほかなりません。」(同上21項参照)と。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音の喜びを告げ知らせることができるよう共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/08/11/000000

 

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