年間第18主日・A年(2020.8.2)

「聞き従って魂に力を得よ」

 

わたしに聞き従えば魂は豊かさを楽しむ

 早速、今日の第一朗読ですが、便宜上第二イザヤと呼ばれるイザヤ書55章の冒頭の抜粋であります。恐らく、預言者イザヤの弟子の一人の、捕囚時代の終わり頃に捕囚民に向かって間もなく故国に戻ることが出来るという希望と慰めの預言の最初の言葉にほかなりません。

 とにかく、五十年以上に亘って王をはじめとする主(おも)だった人たちが、三回も戦勝国バビロニア帝国の首都バビロンの近くに強制移住させられていた試練の時が満ち、いよいよ故国に帰還できる心の準備をさせる預言と言えましょう。そこでは、神殿もなく、屈辱の日々において頼ることのできるのは、みことばしかありません。それは、かつて約束の地に入るまでの40年に亘る荒れ野での試練の旅で体験したみことばによって生きる信仰にほかなりません。ですから、モーセは、その約束の地をヨルダン川の向こう岸に望みながら、次のように切々と語りました。

 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8.3参照)と。

 ですから、第二イザヤも次のように捕囚民に向かって語りかけるのであります。

 「なぜ、糧にならぬもののために銀を量(はか)って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。・・・耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」と。

 恐らく、捕囚民の中には、バビロンの偶像に目を奪われて献金をし、また、いっそのことそのままバビロンに留まったほうが有利だと考え、そのための工作にお金を払った人たちがいたようであります。

 ですから預言者は、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量(はか)って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。」と戒めているのではないでしょうか。

 とにかく、「みことばに、聞き従って、生きる力をいただく」ことこそが、まさに信仰の生き方の原点なのであります。

 

イエスによって示された神の愛にとどまれ

 次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがまだ一度も訪れたことのないローマの教会に宛てた手紙の8章からの抜粋であります。この8章で、使徒パウロは、信仰によってこそ神に義と認められることを、つまり神とのあるべき関係が成立することを強調し、その生き方を説明します。ですから、今日の個所は、その結びとなっていると言えましょう。

 つまり、神の支配と悪の支配が絡み合う現実の只中でキリスト者は、苦しむが、必ず神の栄光に到達できることを強調しております。

 実は、今日の個所からは省かれている36節には、「あなたのために、一日中死にさらされ」とあります。これは、詩編23編の引用であり、ユダヤ教のラビが殉教について語るときに用いる言い回しであります。

 そこで、パウロは、さらに引用を続けて、苦しみにあっても「輝かしい勝利を収めています。」(37節)と、宣言しています。なぜなら、パウロにとって、現在の苦しみは十字架を担ったキリストと共にいることのあかしであり、将来の確かな栄光の前触れにほかなりません(17節)

 つまり、「死にさらされている」ことと、「輝かしい勝利を収める」こととは、人間の目では一致しませんが、この二つの体験は、まさに固く結び合わされているのであります。

 すなわち、死にさらされることがなければ、完全な勝利を得ることが出来ないと、パウロは確信しているのであります。

 ですから、「わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ない」と、断言できると言うのであります。

 実は、「キリストのよって示された神の愛」については、ヨハネがその手紙に中で、次のように簡潔の説明してくれます。

 「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ一、4.9-10参照)と。

 

パンを裂いて与えた

 最後に今日の福音ですが、福音記者マタイが語るパンの奇跡の感動的な場面ですが、まず、洗礼者ヨハネの死に関連づけております。つまり、イエスが「人里離れた所」に退いたのは、洗礼者ヨハネの死を知ったからにほかなりません。それは、イエスご自身も、ご自分の死を予感し、まさに事態(じたい)が頂点に向かって動き始めたことを感じられたからではないでしょうか。

 また、「人里離れた」という言い回しは、「荒れ野」の意味にもなります。しかも、「荒れ野」は、イエスが宣教を始めるに当たって、悪魔の誘惑を体験された場所でもあります(マタイ4.1-11参照)。ですから、イエスが「人里離れた場所」に退かれたのは、あの宣教の最初の時のように、人を生かす神のことばへの信仰を確認するためだったと言えましょう。ところが、そこへ、なんと群衆がイエスを慕って押しかけて来たのと言うのです。

 イエスのおことばによって、魂の糧によって満たされた群衆は、実は、空腹の状態だったのであります。ですから、弟子たちは、極めて常識的な発想で、まず、群集を解散させること、そしてそれぞれが自分の村で食べ物を買いにいくことを、提案します。

 ところが、イエスは、なんと、「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と、突然、命じられます。つまり、群集がイエスを離れるのではなく、その場に留まり、イエスが与えてくださるパンを、弟子たちが、群集に配るよう命じられます。まさに、イエスこそが、そこに留まった全員が満腹できるためのパンを与えることが出来るのであります。

 しかも、パンを与えてくださるとき、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いて賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」のであります。まさに、ミサを彷彿とさせる仕種(しぐさ)ではないでしょうか。つまり、この素晴らしい奇跡こそ、ミサの前表としての役割を演じたと言えましょう。ですから、このパンの奇跡とミサをみごとに関連付けて説明する福音記者ヨハネは、次のようにイエスのおことばを伝えております。

 「わたしは命のパンである。・・・これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6.48-51参照)と。すでに、今日の第一朗読で確認したように、イスラエルの民が、試練の時代を生き抜くことができたのは、たえずみことばによって養われていたからに他なりません。

 ですから、わたしたちのミサは、前半の「ことばの典礼」において、みことばに養われ、後半の「感謝の典礼」において、命のパンで、交わりの儀を体験します。

 わたしたちは、三か月間の間、聖体拝領だけでしたが、ようやくミサを共に捧げるとができるようになったことで、まさに、みことばと御体によって養われるようになったのであります。

 ですから、聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、その使徒的勧告で、すべてのミサが宣教への派遣であることを、次のように強調しておられます。

 「教会は十字架上のいけにえを永久に受け継ぎ、感謝の祭儀によってキリストのからだと血をいただくことによって、自分の使命を全うするために必要な霊的な力を得ます。従って、感謝の祭儀はあらゆる福音宣教の源泉であると同時に頂点でもあるのです。」(『教会にいのちを与えるエウカリスティア』22項参照)と。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を伝えることができるよう共に祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/07/28/000000

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

聞き従って魂に力を得よ「年間第18主日・A年」(2020.8.2).pdf - Google ドライブ