年間第15主日・A年(2020.7.12)

「みことばの力」

 

聴き従って魂にいのちを得よ

 今日の第一朗読ですが、おそらく紀元前6世紀ごろ、預言者イザヤの弟子の一人が、イスラエルが試練の捕囚時代を終え、ようやく故国に帰ることが出来ると言う希望と慰めに満ちた預言を編集したイザヤ預言書55章からの抜粋であります。ですから、一節からは、次のような憐れみの神の優しい呼び掛けで始まっております。

 「渇きを覚えている者はみな、水のところに来るがよい。・・・

 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。

 聞き従って、魂にいのちを得よ。・・・

 主を尋ね求めよ、見出しうるときに。

 呼び求めよ、近くにいますうちに。・・・

 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。

 わたしたちの神に立ち帰るならば

 豊かに赦してくださる。」(イザヤ55.1-7参照)

 言うまでもなく、イスラエルの信仰の土台は、みことばに聞き従うことに他なりません。ですから、故国から一千キロ以上も離れた異国において、信仰の中心である神殿もなく、まさに厳しい試練の最中、ひたすら、神のことばを聞き、みことばから力と慰めをいただけるというまさに神の愛に満ちた呼びかけなのであります。したがって今日の朗読箇所では、神の語られることが必ず実現することを、次のように強調していると言えましょう。

 「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしくは天に戻ることはない。

 それは天地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 

 種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。

 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも 

 むなしくは、わたしのもとに戻らない。

 それはわたしの望むことを成し遂げ 

 わたしが与えた使命を必ず果たす。」と。

 因みに、身ごもったマリアが、親類のエリザベトを訪問したとき、エリザベトは、マリアに次のような最高の褒め言葉をささげました。

 「エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。・・・あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう。』 」(ルカ1.41b-45参照)と。

 

みことばを聴いて悟る者は豊かな実を結ぶ

   次に、今日の福音ですが、福音記者マタイが語る種蒔きのたとえについての説教の抜粋であります。場面は、湖のほとりに集まって来た群衆に向かって、イエスが船から座って語っておられます。

 そこで、神の国のことばの聞き方によって、結果が全く異なることを、わかりやすい種蒔きのたとえで次のように具体的に説明なさいます。

 「だれでも御国のことばを聞いて悟らなければ、悪い者がきて、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれた者とは、こういう人である。」と。

 すでに、第一朗読で確認したように、みことばが語られることは、必ず実現するという心構えがなければ、せっかくいただいたみことばは、実を結ぶことが出来ないと言うのであります。それを、「道端に蒔かれた者」に、譬えております。次に「石だらけの所に蒔かれたものとは、みことばを聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、みことばのために艱難や迫害が起こると、すぐに躓いてしまう人である。」とは、みことばを自分の生き方にしっかり根付かさなければ、たとえば迫害が起こったときに、恐れのためみことばに背いて躓いてしまうと言うのであります。

 因みに、ギリシャ語では、殉教者と証言者をmartusといいます。つまり、みことばの証人が殉教者と言えましょう。ですから、みことばは、まさに命をかけて守りぬくのではないでしょうか。

 「1619年10月6日、都中を引き回されたキリシタン52人は、京都の鴨川の近くの大仏の真正面に引き出された。そこにはすでに二十七本の十字架が立てられていた。男性26人、女性26人、うち十五歳以下の子どもが十一人を数えた。・・・中ほどの十字架には太兵衛の身重の妻テクラと五人の子どもがいた。テクラは三歳のルイサを固く抱いて立ち、両横には十二歳のトマスと八歳のフランシスコが母親と同じ縄で縛れて立っていた。隣の十字架には十三歳のカタリナと六歳のペトロが一緒にかけられていた。

 鴨川に夕日が映るころ、火は放たれた。炎と煙の中、『母上、もう何も見えません。』と娘カタリナが叫んだ。『大丈夫、間もなく何もかもはっきりと見えて、皆会えるからね。』そう励ますと、テクラはいとし子たち共に、イエス様、マリア様と叫び、崩れ落ちた。母は息耐えた後(のち)も、娘ルイサを抱きしめたままだったと言う。」教父(初代教会の神学者)テルトゥリアヌスは、「殉教者の血は、信者の種である。」と、喝破しました。今日の日本の教会は、大勢の殉教者の流された血を土台にして生きていると言えましょう。

 つぎの、種まきのたとえの最後の個所ですが、「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、世の思い煩いや富の誘惑がみことばを覆いふさいで、実らない人である。」と、断言しております。

 今日(こんにち)の私たちのライフスタイルは、まさに情報の波に流されていると言えましょう。ですから、せっかく聞いたみことばが、まさに世俗的な言葉の洪水の底に沈められてしまうような状況ではないでしょうか。

 ですから、みことばにしっかりと踏みとどまることが出来るように、こどもの時から、家庭でみことば教育を実践しなければならないことは、すでにモーセの時代から、次のように強調されて来ました。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらのことばを心に留め、子どもたちにくり返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申命記6.4-7参照)と。

  今日(こんにち)の教会において、信仰が、子どもたちや若い世代に十分に伝わっていないという深刻な状況の原因は、このモーセが命じる家庭における子どもたちへのみことば教育を実践していないことにあるのではないでしょうか。

 ここで、この譬えに締めくくりの言葉ですが、ルカ福音書の並行箇所では、次のように強調されております。

 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心でみことばを聞き,よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8.15参照)と。

 ですから、最後の晩餐の席上、弟子たちを宣教に派遣するに当たって、次のようにイエスは弟子たちを励まされました。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15.16-17参照)と。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会においてみことばを告げ知らせることが出来るようともに祈りましょう。

 

 

※関連記事(1996カトリック新聞に連載・佐々木博神父様の「主日の福音」より)

https://shujitsu-no-fukuin.hatenablog.com/entry/2019/07/07/000000

 

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